失われた30年とエネルギー消費

 エネルギーが如何に社会の発展や社会構造と関連があるかを示す例をここであげておきます。
 失われた20年という言葉が10年ほど前、日本経済についてしばしば聞かれたものです。バブル崩壊後、それまで世界が驚く経済成長を続けてきた日本が、ぴたっと成長を止めたかのような、少なくとも経済界ではそのように考えられていたようですね。安倍元首相も初期にこの言葉をよく使っていたのではないでしょうか?
 その後安倍政権が10年ほど続きました。アベノミクスの三本の矢で、経済は上向いたと考える人達もいます。しかし一方黒田さんの金融緩和の目標である恒常的な物価上昇が2%を越えることを達成できなかったことをみると、やはりアベノミクスによる経済成長は、眉につばをつけて考えないといけないのかなと、経済の素人ながら考えもします。そういう立場に立てば、時々聞く失われた30年という言葉が、今でも正しい評価であるような気がします。要は過去30年間日本経済が停滞しているということでしょう。
 エネルギーは例えて言えば社会経済の血液です。血液を調べれば、人の健康状態が解るように、エネルギーを調べれば、その国の健康状態が解るのではないでしょうか? 
 この論考では過去のエネルギー消費データを押さえながら、これからの社会を考えて行きます。エネルギーはその消費量がしっかりとデータとして把握されているので、過去の動向は調べればわかるはずなのですが、過去10年規模のデータは散見されるものの、過去半世紀にわたるデータは、日本では調べた人はないようです。あるいは調べても人々の興味を引かないと思って発表しなかっただけかも知れませんが。
 過去半世紀にわたるエネルギー消費データは、IEA(International Energy Agency)のHPを見れば誰でも知ることが出来ます。IEAは1973年、オイルショックを契機に設立されました。主たる目的はエネルギーの安定供給を全世界で援助することでした。中東戦争で石油の安定供給が崩れたから、そういう事態を今後出来るだけ避けようと、世界の首脳達が考えたのです。ちょうど今から半世紀前のことです。そのためにはエネルギー消費と産出の正確なデータを公表し、エネルギー政策の展望を出来るだけ客観的に示すことが重要です。それがIEAの主たる仕事になります。
 オイルショックは第二次世界大戦後現代社会が経験した初めてのエネルギー危機でした。そのときのエネルギー危機は、第四次中東戦争が引き起こしました。そしてそれからちょうど50年後の2023年、プーチンが引き起こしたエネルギー危機に、現在我々は直面しています。
 このページでは、過去半世紀の日本のエネルギー消費データの変遷を見ながら、果たしてこのままの進行方向で日本は大丈夫なのかを考えて見たいと思います。思えば1973年には、戦争に負けた日本が、世界も驚く復興ー成長を成し遂げている最中でした。それから20年も経たないうちにバブルがはじけ、日本は失われた30年に入っていきます。ただしアベノミクスで「失われた」時代を脱却したという考えに立たないという前提ですが。
 失われた30年の見方に立てば、戦後80年弱の期間のすでに30年以上を「失われた時代」と呼んでいるのです。さらに戦後の混乱期が終わって高度経済成長に入ったのは50年代半ばですから、経済成長期が続いたのが約35年、それ以降を停滞期と考えると、日本経済の停滞期は、すでに経済成長期と同じだけの年月続いて来たと考える必要があります。失われた30年の理由を、様々な見方で指摘する論考も多くありますが、その多くは○○に遅れたとかいうテクニカルな問題を指摘するものであり、経済の枝葉にしか過ぎないような気もします。枝葉に過ぎない個々のテクニックでは説明できない驚くべき成長期と同じ長い期間、個々のテクニカルなことで経済が停滞するでしょうか? これだけ長い期間にわたって停滞期が続くなら、それはその前の急速な成長期と根が同じ、あるいは関連しているかも知れないと疑う事も必要ではないでしょうか。
 戦後の日本の在り方の何かが致命的な間違いだった可能性も含めて、あるいはその賞味期限が過去のものになっていることも含めて、長いスパンで考えて見ないといけないかも知れません。その間違いだったか、あるいは賞味期限が切れた考え方は、成長期の35年と停滞期の30年以上、合わせて70年近く日本を支配してきた可能性があるのです。後期高齢者に入った私の人生全体を通じて、その間違いを日本人は常識として受け止めてきた、そういう可能性があるのです。つまり今に生きる日本人のほとんどが生涯にわたって常識としてきたものが、長期的には常識として考えるべきではないものだった、そういう可能性を含めて、この論考を読んで下さい。IEAが公表するエネルギー消費データは客観的なものであり、信頼できる情報をそこから導けるでしょう。
 消費データとしては、最終エネルギー消費を見ていきます。また現在の日本では、エネルギーといえば電気となるくらいに、電気が多く消費されていますから、まず電気の消費についてのデータから調べていきましょう。

21世紀日本の年間消費電力量の推移

 上のグラフは、日本の年間消費電力量の推移を、2000年~2020年までプロットしたものです。電気はこのほかに第一次産業でも、また鉄道上でも消費されていますが(もちろん電車です)、両分野とも電気の消費量は上に示した三分野に比べて非常に少なく、ここでは取り扱いません。電気のほとんどが、上記三分野で消費されているのです。各点は年間電気エネルギー消費量を表しており、単位はMtoe(メガ石油換算トン)です。
 これをすなおに良く見て下さい。多くの人が驚くはずだと思います。21世紀に入ってから、日本でもさんざん省エネ・節電が叫ばれました。現都知事が政治で有名になったのは、クールビズのかけ声ででした。クールビズは夏の出勤時、ネクタイなどを省略し、エアコンの出力を最小に押さえるのが目的でした。効果があれば皆さんの勤務先の電力消費が押さえられたはずです。多くの人が効果があったと考えているようですし、どのマスコミも失敗だったとは言っていません。ですがクールビズが叫ばれた2005年前後で、第三次産業でも家庭でも効果が明らかにあったとこの図で考える人は、まずいないと思います。クールビズは成功したか失敗したかの問題ではなく、フェイクもどきの気休めにしか過ぎなかったと考えるのが、素直な受け止め方ではないでしょうか。本質的な問題は何かをしっかりと考えなかったから、枝葉に過ぎないことに集中して自己満足に陥った可能性が強いのです。
 思えば21世紀初めにはCO2削減という言葉が様々に形を変えて浸透していきました。年間のコピーの量が、用紙を積み上げたら富士山より高くなるなどという話が、私のいた大学の中でも大まじめに主張され、コピー量を減らそうとキャンペーンが張られました。しかしコピー量を減らしてもエネルギー消費に影響はありませんでした。おそらく身のまわりから始めようという、もっともらしいがそこで満足すれば本質を見誤る標語に、悪く言えば騙されたためでしょう。身の回りから始めて、本質を皆で考えましょうという標語に変えるべきでした。
 このころ、環境○○学専攻で最先端の勉強をしていると勘違いして、排出CO2量を計算していると言って胸を張る文系学生も多くでました。CO2削減量を計算できても(実は表がありそれを使えば簡単にできる)エネルギーの知識は皆無である不思議な学生達でした。彼らは表を見て計算するこのカンニングもどきの技術で、環境関係に就職していったかも知れません。しかしそういう学生の一人に、あるとき、じゃあ消費エネルギーはどのように変化するのか量的に答えてくれと言っても、何故そんな質問が出るのか、全く理解できない様子でした。学生を教える教授が助け船を出しても、およそ答えになっていない「助け船」でした。CO2は化石燃料消費によるわけですが、エネルギー消費の考察を全く避けて、CO2排出の公式を鵜呑み丸暗記していることが明らかでした。二流校の型にはまった入試じゃあるまいし、科学的な研究では鵜呑み丸暗記の計算は通用しません。このように本質的問題を考えることを回避した結果、化石燃料消費を効果的に減らすことに失敗し、当然ながらCO2削減が思うように進まなかったのが、日本の21世紀の最初の20年です。このような安易なフェイクまがいの行為を許す風土が現代日本にはあると思わなければなりません。
 さらに見ると2011年の福島原発事故の影響も、素直に見て、見えていると思う人は皆無ではないでしょうか? むしろ日本は何をやっているのだと、考え直す人のほうが素直だと思われます。え、何ですって? 2011年以降少しずつ電力消費は減っているですって? そう、貴方もCO2削減のお念仏を、一所懸命唱えておいでだった。いや原発反対と叫んでおられたのかな。好いでしょう。それが原発事故の反省によるものか、もっと長いスパンで見て見ましょう。

20世紀最終四半期での消費電力量推移

上のグラフはIEAがデータを取り始めた1973年~20世紀の終わりまで、毎年の日本での電気エネルギー消費量の推移をプロットしたものです。1973年には日本の高度経済成長はほぼ終焉していました。それにも関わらず、毎年のエネルギー消費は右肩上がりで増加を続けていたことが解ります。
 この全期間を通じて、工場での電力消費が、家庭よりも、また第三次産業よりも大きかったことが、まず目をひきます。21世紀に入っても工場の電気消費は他を上回り続けますが、20世紀には他を引き離しての消費量だったのです。日本は間違いなく工業立国の国でした。しかし1990年、ちょうどバブルがはじけた頃、工場での消費量は頭打ちになります。
 一方で家庭での電気消費と、第三次産業での電気消費は、確実に増え続けます。そして1990年以降は、第三次産業の伸びは家庭のそれを上回り、消費量の絶対量も20世紀末には第三次産業が家庭より上回る現象が起こりました。
 バブルがはじけたのに、また失われた30年が始まっていたのに、電気エネルギー消費量は何故、以前に増して増加したのでしょうか? 
 消費増大の原因が、経済が衰退した地方でないことは明らかです。地方ではすでに人口減が始まったため、消費するエネルギーは当然減少していたでしょう。
 増加の場所は明らかに人口が減ることもなかった大都会です。でも何故バブルがはじけた後電気エネルギー消費が以前に増して増え続けたのでしょうか?
 その答えは主として「高層ビル群にある」です。高層ビルは電気を爆食いします。バブルは不動産バブルでした。主として東京の不動産が取引され、バブルがはじけても新しく購入された土地に、新しい地主達は再開発を進め、古い建物を壊し高層ビルを建て続けました。再開発計画開始から数年遅れで完成した高層ビルは、次々と電気の爆食いを始めます。それがかつて見たこともない電力消費の増加として、1990年代に現われたのです。
 何故高層ビル群と決めつけるのかと疑うかたも多いでしょう。決めつけているわけではありません。過去十数年にわたって、私自身物理学者として、どの仕組みがエネルギー消費が多いのか、一つ一つ考えてきた末の結論なのです。過去十数年の間に原発事故もありました。エネルギーの話がニュースで頻繁に流れました。そしてテレビなどでコメンテーターを務めたりする人達の、エネルギーに対する科学的な理解の無さに驚愕したのです。(実はこれは現在も変わっていませんが。)それ以来従前にもまして、どこでどれくらいのエネルギー消費が起こりうるか、初等的物理学及び原子核物理学の知識に基づきながら、私自身簡単な実験や観察および計算と、目に入る限りのネット上に現われる玉石混淆の文を読むことを繰り返した結果、得られた知識から導く結論なのです。
 様々なところでエネルギーは消費されますが、それらのエネルギー消費のそれぞれが、どの程度のエネルギーを消費するのか解らずに、エネルギー消費の増減を議論することが出来ないことはお分かりでしょう。特にこの論考で後に示すように、家庭と第三次産業のエネルギー消費の急増は、他の先進諸国では見ることができないのです。むしろIEAのデータがある半世紀の間、大きな増減はなく安定して推移する状態が通常です。一方上の図から見ると日本では1990年からのわずか十年間で、第三次産業の電気の消費は二倍も跳ね上がっています。日本のこのエネルギー消費の推移は特殊なのです。そして不思議なことにこれが失われた30年の始まりと合致しています。他の国の議論を参考にすることは出来ず、日本国民が自分で考えなければならないのは明らかです。アメリカの有名経済学者がこう言っている、あるいは世界の権威筋がこう言っているという論法は使えないのですね。でもそれだからこそ、これまで誰も気付かなかったのかも。だとすれば、限りなく寂しいことですが。だって日本で行われる経済やエネルギー及び環境の議論が、アメリカやヨーロッパでの議論の追従に過ぎないことになりませんか?だから日本の特殊なデータを気付かず、何が問題か解らず右往左往するだけだった。
 何故高層ビル群なのか簡単に説明しましょう。まず第三次産業と家庭でのエネルギー消費は、建物の中でのエネルギー消費だという事に注目して下さい。また現在考察しているのは電力の消費です。皆さんのご家庭にも考察に必要なあらゆる種類の電気器具があるでしょう。家庭での電気器具は、どの位エネルギーを使うのか、電気器具の消費エネルギーを知り、また毎月の消費電力量を知れば解ります。それが必要不可欠な基本電力量の目安となります。高層ビルの中にあっても、必要不可欠なものはそれから類推できる電力消費でしょう。違いは内部人数のスケールの違いに由来するものだけでしょう。そしてそれだけで済むなら、高層ビルは悪役にはなりません。
 多くの皆さんの家庭には無くて、高層ビル群にあるものが一つあります。異なった階への移動手段。そうです、エレベーターとエスカレーターです。これは位置エネルギーを変える手段です。それには大量のエネルギーを必要とします。うそと思うなら、高層ビルの一階から最上階まで、ご自分の足でのぼってご覧なさい。きっと息を切らしてはぁはぁ言って上るでしょう。息を切らすのは体内のエネルギーを急激に消費した結果です。こういうことでエネルギーの消費量の目安が立つのですね。
 この代理をいとも簡単にエレベーターは行いますが、エレベーターであろうと自分の足であろうと、貴方が階を移動するときの必要エネルギーは変わりません。階の移動に要するエネルギーは、位置エネルギーの変化として、今や中学校でも教えていることです。エレベーターは明らかに大量のエネルギー消費源の一つです。
 もう一つ大切なものがあります。細長い高層ビルは体積に比べて表面積が非常に大きい。これも考察に値します。表面積が大きければ、熱の出入りがそれだけ大きくなります。いわゆる断熱が悪いのです。断熱が悪ければ、内部と外部の温度差による熱の移動が大きくなります。要はせっかくエアコンで調節した内部温度が、外部温度に引き戻される現象が起こります。結果を解りやすく言えば、エアコンをガンガン強くしなければ、内部の人は快適さを急速に失うのです。これも高層ビルのエネルギー消費が大きい理由です。
 最後に太陽エネルギーの入射があります。これは冬には好いですが、冬は太陽エネルギーはもともと弱いので、あまり意味がありません。しかし夏は大変な影響を持ちます。通常高層ビルは大きな窓ガラスを多用しています。これは先に述べた断熱性の低下にも繋がります。しかしそれだけではありません。ガラスを通して太陽光がふんだんに降り注ぎます。そして太陽光は内部に入り、内部で熱エネルギーに変わります。何のことはない。窓ガラスを通して、建物は内部を暖めるヒーターとなります。高層ビルにエアコンがなければ、夏の昼時には、ビルの内部温度は簡単に外部温度より高くなり、具体的には40℃を短時間で越えてしまうでしょう。そしてエアコンはフル回転します。クールビズ程度の対策は吹き飛んでしまうのも不思議ではありません。
 以上で高層ビルの消費電力が大きい理由はわかっていただけると思いますが、別のページに実際のビルの例をあげて高層ビルの巨大な電力消費を説明していますので、合せてお読み下さい。このページの最後にリンクが貼ってあります。このためにバブルがはじけた後も、日本での電力消費が増加していったと考えています。
 こうしてみると最初のグラフでの21世紀でのエネルギー消費の推移の主たる要因が解ります。増加の割合は減ったものの、20世紀終盤の勢いの余波で、家庭と第三次産業では、2010年頃まで増加そのものは続きます。主犯はこのころ急速に進んだ高層ビル群です。クールビズのかけ声はほとんど効果はありませんでした。そして福島原発事故。事故の影響で消費電力が減ったと言うより、バブル後の勢いが弱まったから消費電力がわずかに減少に転じたとみるほうが素直な見方でしょう。都会の消費電力増加を完全に打ち消す形で、衰退する地方の消費電力減少が続いたのです。
 バブルがはじけたとき、同時に経済停滞期が始まりました。バブルがはじけたとき、もはや東京には日本経済を牽引する力はなくなっていたと考えるべきでしょう。東京にエネルギーを注入しても、経済の改善は見られませんでした。ですが失われた○○年を気にし始めた人々は、この国には希望が必要だ、だから東京オリンピックを、という話が進みました。全く見当違いと言わざるを得ません。皮肉なことに電気消費減少がはっきり解る年は、2020年コロナ禍の始まりの年です。この年経済が停滞しはじめ、工場でも第三次産業でも、電気の消費が減少します。一方お家にこもった影響で家庭の電気消費は増えています。
 現在コロナ禍を脱して、コロナ禍前と同じような状態に復興しようという話が、当然のように流されているように感じます。コロナ禍もプーチンの侵攻も、時代の変わり目というメッセージだと私は思います。どちらの悲劇も二十世紀後半には考えも及ばなかった出来事です。これを見ても二十世紀には未来に向けて何か大切な考え方がまだ不足していたことが解ります。単にそこに戻ろうというのは間違いです。ここはしっかりとこれまでの経緯を学び、新しい時代に向かって進むべき時です。新しい時代とは何か? それは持続可能社会を建設するという時代です。脱炭素に代表される持続可能社会については、日本では受け売りの安っぽいお念仏に近い形で議論されることが多く、科学的合理的に議論する人は大変失礼ながら脱炭素関連(つまりエネルギー関連)では皆無の状態ですが、エネルギー理解を基にしないとフェイクに踊らされるという教訓を、過去のエネルギー消費の実態が示しています。このまま昔に戻っても、東京というエネルギーを爆食いする不思議な都会をそのままにして、これから繰り返し人類を襲うであろうエネルギー危機が避けられると思ったら、大変な間違いを犯すことになります。
 上の二つのグラフを通して見て、次のことを結論しました。戦後日本は経済成長のため、東京一極集中を進めました。しかしバブル崩壊後も続いた東京集中高層ビル群建設は、日本経済の牽引力にはならず、エネルギーの無駄遣いを進めただけだったことです。東京一極集中は自然エネルギーでは支えられず、持続不可能社会であることは他のページで繰り返し主張していることですが、東京一極集中は日本経済を牽引するどころか、今や邪魔者になってしまいました。20世紀の古臭い考え方と行動、それが東京一極集中なのです。すみやかに戦後長く続いたこの軛から脱することが、日本の未来にとって重要です。

他の先進諸国との比較

 失われた30年は日本特有の現象です。アメリカ、ドイツなどはそれなりの経済成長を遂げているのに、日本だけが何故経済の成長が停滞しているのだと、多くの経済学者が色んな説を唱えているようです。それでは他の諸国のエネルギー消費の推移を見てみましょう。
 他国と比べるとき、電気だけを見ていては間違いのもとになります。日本では「エネルギー問題」=「電源配分問題」となりますが、日本ほど電気エネルギーに頼り切った国は余りないことを知っておかないといけません。例えばドイツの家庭では、今やエネルギーと言えば天然ガスと言わんばかりに、天然ガスに頼っています。事実家庭での電力消費は日本では天然ガス(都市ガス)の倍ほどありますが、ドイツでは電力消費は天然ガス消費のおよそ半分であることが、IEAのデータから解ります。ロシアの侵攻をウクライナに次いで怒っているのはドイツかも知れません。
 そこで電気だけではなく、最終エネルギー消費で比べることにします。最終エネルギー消費とは、エネルギー消費現場で消費されるすべての種類のエネルギーのことで、それには電気、天然ガス(都市ガス)、石油製品などが含まれます。皆さんのご家庭でも、電気だけではなく、ガス(天然ガスが多い)や灯油(石油製品の一つ)など消費しているでしょう。

まず上に見ていただくのは、1973~2020年までを通した日本における最終エネルギー消費の推移です。既に見た電気に限られたエネルギー消費の推移の特徴を、ほぼそのまま見ることが出来るでしょう。

 次に見てもらうのは、同じ期間でのアメリカの最終エネルギー消費の推移です。
 日本との大きな違いを二つ見て下さい。まず第一は家庭と第三次産業の消費量の比較です。過去半世紀を通じて、家庭での消費量が、第三次産業での消費量を常に上回っていることです。日本ではこの二つの分野のエネルギー消費は拮抗していました。今一つは、エネルギー消費量は、家庭でも第三次産業でも、少しは増加していますが、日本ほど増加の割合は大きくなく、むしろほぼ一定に保たれているということです。エネルギー消費をガンガン増やすのが進歩だと思っていた日本とは大違いになっています。アメリカでさえこうなのです。

同じ事がイギリスの消費にも見て取れます。工場を含めて家庭が一番のエネルギー消費場所になっているのが、アメリカ以上に顕著に見えて、さらにアメリカで指摘した二つの特徴はイギリスにも共通して言えることになっているでしょう。

 最後にドイツを見て見ましょう。ドイツは過去半世紀、ベルリンの壁崩壊、東西ドイツ統一など、日本以上に大事件に直面してきました。しかしエネルギー消費には日本ほど大きな変化はなく、第三次産業が家庭より大幅にエネルギー消費が少ないことは、米英と変わりはありません。
 このページでは、日本が20世紀に大幅に消費エネルギーを増加してきたこと、それは東京一極集中及び20世紀の経済成長と大いに関係があること、そして東京一極集中は今やエネルギー消費としても停滞し、それが失われた30年と関係あるだろう事を指摘しました。失われた30年を共有しない他の先進諸国は、エネルギーの大幅消費増加も共有していないことも見てきました。
 過去20年日本でもエネルギー消費がほとんど変化がないことを理由に、日本も先進諸国の仲間入りをしたのだと考えるとすれば、大の間違いだと指摘しなければなりません。20世紀の日本は東京一極集中を含む大きな社会変動を経済成長の原動力としてきました。そしてそれは日本をして化石燃料消費を余儀なくさせる、持続不可能社会への変動でもありました。東京を自然エネルギーで支えることは、思考停止が生み出す全くの幻想にすぎません。
 また次のことも反省を込めて認識しないといけないでしょう。それは快適だという理由で冷暖房をむやみに活用する生活に日本は慣れていったことです。イギリスやドイツに比べて、日本は本来温暖な気候を持っています。冬の暖房の為のエネルギー消費は、これらの国に比べて本来少ないのです。1973年に見る家庭や第三次産業でのエネルギー消費の少なさはそれを示しています。
 戦後の経済成長は安易に住居や建物を建て直す悪弊を作り出しました。日本では新築住宅は30年持てば良いという安易な考えが生まれました。米英独に見るエネルギー消費の変化の少なさは、建築物を日本ほど頻繁に変えなかったことを表しています。
 快適な生活は必要です。しかしそのために一世代で住宅を建て直すのは持続不可能社会を作りだします。日本の気候にあった、エネルギーを無駄遣いしない、長期に持続する住宅を。このような考え方が21世紀日本には必要になります。
 このページをオイルショックと今回のエネルギー危機で始めました。今回のエネルギー危機は、日本以上に酷くヨーロッパ諸国を直撃しています。何故なら日本の天然ガス輸入は、ロシアからは8%でした。ドイツなどでは主要エネルギーが電気ではなく天然ガスなのですが、その半分をロシアに頼っていたのです。また半世紀前のオイルショックも、欧米に比べると日本は中東と比較的良い関係を保っていましたから、欧米よりも凌ぎやすいものでした。
 しかしエネルギーをほぼ全量輸入に頼る日本は、エネルギー危機に対して脆弱であることは明らかです。多くの人がエネルギー危機は特殊な時期であり、しばらくすれば過ぎ去ると考えています。しかしそれは致命的な間違いであり、有限な化石燃料に頼る限り、エネルギー危機はこれからさらに頻繁に、そして深刻さを増しながら人々を襲うことは、それこそ火を見るより明らかなのです。

まとめ1 危惧

 この論考ではまず21世紀に入ってからの日本におけるエネルギー消費、特に電気エネルギー消費を調べ、21世紀に入って急速にマスメディアなどで主張されるようになった節電・省エネは、データから見ると全くと言っていいほど、達成されていないことを見ました。エネルギーに関するメディアの報道は、今も変わらず的外れなものが多く、良く吟味しなくてはいけないことを教訓として認識すべきでしょう。
 メディアのニュースやCMで垂れ流される水素やアンモニアへの期待は、それが化石燃料の代わりを務めるかのような空気を醸します。ですがそれはプーチンがいうロシアは絶対に戦場では負けないというあきれかえるばかりのレベルの、まるで昔の大本営発表みたいなフェイクであり、報じるメディア自身全く理解しておらず、半信半疑であることは聞いていて明らかです。
 水素やアンモニアは二次エネルギーであることを認識しないといけません。二次エネルギーはその性質上、一次エネルギーより高価になります。日本の一部の企業が、アジアやアフリカのどこかで、一次エネルギーである自然エネルギーから二次エネルギーである水素などを大々的に作り出せないかと考えているのでしょうが、油田から簡単に掘れる石油などとは違って、自然エネルギーから大量のエネルギーを取り出すには、広大な土地面積が必要です。21世紀が進むに連れて、一次エネルギーである化石燃料価格はますます高くなります。そして自然エネルギーからの二次エネルギーである水素やアンモニアが当然高価ながらも、それと競合する形で市場に出回るかも知れません。その時再生可能エネルギー起源の水素は確かに利点を持つでしょう。再生可能エネルギー起源だから、CO2は排出しないという利点を。ですがそれを大量消費するのは、庶民の手には届かない高価なものになるでしょう。集中したエネルギーは、ますます高価になるだけです。自然エネルギーで生きる持続可能社会に移行しなければ日本の未来はありません。何故って? 簡単です。単に多くの皆さんの家庭で、高価なエネルギーを購入することが不可能になるからですよ。また一方多くの人が考えもしなかった問題も、繰り返し出てくるでしょう。それは水素を大量に生産するために、貴重な自然環境を広大な範囲で壊してしまったと、土地の住民から繰り返し告発される問題です。20世紀の古い発想ーエネルギーをガンガン使おうという発想は止めないといけません。
 政府が補助金を捻出すれば、価格が何とか破壊的な大きさになることを避けられるレベルの話ではないのです。その時代の政治家は大変でしょう。現代のようにやってる感だけで選挙対策になるような話は、ふっとんでいるでしょうから。ただ、それは質の悪い二世三世の政治家を、政界からたたき出すには良いかも。
 この論考では、日本でのエネルギー消費が、家庭と第三次産業で、過去半世紀ー特に20世紀最終四半世紀に、大きく増加してきたのを見てきました。これは他の主要国(ここでは米英独)に見られないことです。これはIEAのデータを素直にプロットしただけの話で、フェイクではない信頼がおける事実です。また私の世代の人間は、物心ついたときから社会が大きく変わってきたことを知っています。人や物が東京にドンドン集まっていく姿は、過去半世紀当たり前に見られたことでした。そして東京を中心に再開発が続き、高層ビルがどんどん建ち並んできました。今の若い人は思いもしないでしょうが、私の子供の頃、高層ビルは地震で倒れやすく、地震大国の日本では建たないと言われていました。日本の技術はその常識を打ち破るほど発展したのです。しかし福島原発事故とその後の経緯を見て見ると、地震大国には高層ビルを建てないのが正解だったような気もしてきます。現在エネルギー危機から原発回帰が進んでいますが、これをしっかり考えて教訓になすべきです。高層ビル群が東京になければ、原発の必要性はなくなっていたでしょう。大手電力会社は電気が売れなくなると言って困るでしょうが。
 あえて念のために確認しますが、大手電力会社・大手ガス会社の本音は、化石燃料や原発を使っても多く電気を売ろう、ガスを売ろうであることは、CO2削減に取り組んでいるという姿勢を見せて、怪しげなエコの話を只で振りまいて、国民にサービスをしている姿勢をとる(と私には見えます)、これらの社員の多くと会って会話を重ねてきた私にはよくわかります。彼ら社員は自己矛盾を余儀なくされているのです。でもこれは資本主義の基本性質から仕方ないことです。大手エネルギー会社に未来社会のエネルギーの考察を無条件にゆだねることが間違いなのです。現在の大手エネルギー会社は化石燃料で存在しています。自然エネルギー社会で生き残るには、かなり無理があるでしょう。現代社会が自然エネルギーで生き残るのはほとんど不可能であるように。そうすれば大手エネルギー会社の現在の論理では、フェイクに近いことを構わず、夢物語として流す欲望を抑えることは難しいでしょう。この論考の冒頭で見たクールビズはほとんどフェイクだったことを良く理解して下さい。エネルギーに関しては、現代日本人はフェイクに騙されやすい体質を持っています。
 東京集中高層ビル乱立が進むに先行して、社会の「発展」は、自動車に道を譲り、電車は撤去され、人は自動車に遠慮しながら道を歩くようになりました。高層ビル、自動車過剰社会、東京一極集中、このどれもが持続不可能社会の要因であり、このまま過ごすと、今後恒常化するであろうエネルギー価格の上昇に、庶民は悲鳴を上げ続けなければならないでしょう。そのとき日本は三流国家に成り下がっているでしょう。

まとめ2 考察と希望


 経済成長のため日本ほど社会を変えてきた国は、他の先進諸国にはありませんでした。これはIEAのデータから解るフェイクではない事実です。恐らく人々に西欧近代科学に対する基礎的な知識を無視して、西欧近代化を推し進めたからじゃないかと私は愚考しています。西欧近代科学は17世紀に生まれました。つまりデカルト達の西欧近代哲学と同時に生まれたのです。事実デカルトはニュートンに多大な影響を与えています。ニュートンの作用反作用の法則と等価な、運動量保存則を最初に言い出したのはデカルトでした。保存則という考え方の始まりでした。これがエネルギー保存則に続きます。また中学生以来おなじみのx軸とy軸からなる直交座標を考え出したのもデカルトです。
 このような17世紀を経て、18世紀後半に民主主義革命と産業革命がほぼ同時に生まれたのは偶然ではありません。西欧近代哲学と西欧近代科学は根を同じにしています。西欧近代民主主義と科学的思考法は西欧近代の中で緊密に結びついていますが、戦後日本は西欧近代民主主義だけを基本的科学の理解なしに推し進めてきました。事実選挙権を持つ日本人の大半は、科学など自分に関係ないと考えておられるでしょう。間違いなくこれは日本の民主主義を浅薄なものにしてしまいました。
 選挙による民主主義と科学的な姿勢は、西欧近代の核心をなすものです。ロシアのウクライナ侵攻に対して、民主主義国の団結を訴えるのは、その西欧近代の根本に関わる事だからでしょう。現代の西欧近代中心の時代が、それを踏まえて次の歴史の段階に進むことが出来るか、ウクライナ問題が現代人に突きつけているのような気がします。
 だが日本では科学の理解がないままに、民主主義を受け入れています。恐らくそのためによる、エネルギーに関するフェイクすれすれの話と、それに対する人々の無関心を、原発事故以来私はいやというほど見てきました。基本的な思考による科学的合理性を無視して社会を変えてきた結果、日本のエネルギー消費は大きく増加しました。その結果一時は急速な経済成長を成し遂げましたが、今や社会を化石燃料向けに変化させ、それを利用して経済成長を導いた牽引力は、東京にも自動車にもそして高層ビルにも、最早残っていないというメッセージを、失われた30年が発信しているのだと思わざるを得ません。
 それにしても失われた○○年が1990年に始まったとして、すでに30年以上が過ぎました。この論考の最初に指摘したように、高度経済成長に始まる成長期と、ほぼ同じ年月経っているのです。日本人は何故危機感をもっと持たないのでしょう。
 実は30年という停滞期間は私が東京にいた時代とほぼ重なります。その初期の頃高層ビル建設が進んでいました。停滞期に入ったことは、東京では全く感じられませんでした。そして東京では再開発が今も変わらず続いているので、経済失速は東京の多くの人にとって、実感を伴わないのではないでしょうか? 地方に移り住んで、そして地方に旅をして、私は地方の疲弊をひしひしと感じます。つまり東京では経済失速をあまり感じず、地方は逆に「経済破綻」の危機を感じている。そのような状況です。失われた30年は、東京と地方の経済格差が非常に大きく広がった時代でもありました。地方で東京発のニュースを聞いていると、時々東京の人には解らないだろう違和感を感じます。東京の人の多くも、もともとは地方の人にもかかわらずですよ。
 東京一極集中の弊害は、論壇にも現われています。東京からのニュースだけが全国に流れ、それに違和感を東京の人も地方の人も感じない。マスコミ大手の本社はすべて東京にあります。すべてのニュースが東京から流れます。多様性と言いながら、東京というフィルターがかかって、すべてのニュースが日本各地に流れます。日本を牽引する力は30年前に失われたままの東京からのニュースが一全国に全国に流れるのです。
 これは私のように、東京での活動を地方で続けようとすれば、ものすごい違和感を感じるのです。例えば東京から一票の格差是正などを発信する人達がいますが、地方にいるとすごい違和感を感じます。一人一人の意見が大切なら、一地方一地方の意見も大切じゃないでしょうか。それぞれの地方がそれぞれ自分の力で全国発信が、いや全世界発信が常時できるようにならないと、東京一極集中は終わらないのでしょうか。私のこのページの論考が基本的に正しければ(私は正しいと確信を持っていますが)、日本の経済は東京一極集中が終わらなければ改善の道はないのです。地方の人がそれぞれの地方で頑張る以外、日本経済は改善しないような、そのような恐ろしさを感じます。中央は何の役にも立たず、日本再生の邪魔者でしかないかも知れないのです。そうであってはほしくないですが。
 持続可能社会建設の為に、日本経済復興の為に、東京一極集中からの脱却は、絶対的に必要不可欠であることを、読者の皆さんには反芻熟考のうえ、是非理解して頂きたいのです。そして失われた数十年からの脱出の希望を持ちましょう。それは地方分散型社会に日本を移行させることです。地域創生から始めなければなりません。交通手段を含め地域を再生可能エネルギーで支えられるように変えながら、持続社会に向けた緩やかな成長を地域毎に進めるのです。その底力は日本各地方に備わっていると信じます。
 地方分散型社会へ移行するには、紆余曲折もあるでしょう。すでに各地で真剣な取り組みは始まっています。その人達に本考察が役に立てば幸いです。エネルギーという視点は大切な視点だと信じますが、不思議なことにこれまでエネルギーを考察した上で社会を構成し直す視点は提示されなかったように思います。多くの人が今の社会をそのままにして、ただエネルギーだけを化石燃料から自然エネルギーに変えていけばよいのだと思っているようです。その考えこそ間違いなくフェイクです。特に20世紀後半から、化石燃料大量諸費を当然なこととして、東京一極社会を構築してきた日本にとっては。
 日本でのエネルギーに関する話は、フェイクすれすれの話に満ちています。基本的に正しいことを信じる力の結集が、フェイクに負けず如何に偉大な力を発揮するか、例をウクライナの人々が示してくれているのを我々は目の当たりに見ています。フェイクに負けず科学的に正しい方針を立て、持続社会を築く力を持つという信念の結集も、偉大な力を発揮すると私は信じます。
 この論考で私の視点をまとめながら、地域創生の核の一部になり得るある考えを着想いたしました。次はそれを発信し、また実行に移していきたいと思っています。

このページは、2023年2月16日に京都ANAホテルで行われた、「みやこの電車百人委員会」での講演を基に作成されました。

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