天動説から地動説への移行は、パラダイムシフトの非常にわかりやすい例なので詳しく見てみましょう。
天動説(Geocentrism)
天動説という言葉は日本語での言い方で、本来の意味に忠実に地球中心説と訳せば、その宇宙観を正しく伝えてくれます。それは宇宙の中心に不動の地球があると考える宇宙モデルです。ユーラシア大陸西部の古代に、プトレマイオスが集大成したものが、中世末期までヨーロッパの大学で地球を中心とした宇宙観として、天文学の科目で教えられていました。ちなみに天文学は中世ヨーロッパの大学のリベラルアーツの一科目でしたから、大学で学ぶ人たちは必ず受講していた科目でした。大学はユニバーシティです。宇宙(ユニバース)につながる、神に従う統一見解を学ぶ場でありました。したがって宇宙論はユニバーシティの基礎でもあったのです。そしてその基礎は地球中心説でした。
地球中心説では、有限である宇宙の中心に地球がありました。(中世ヨーロッパには、基本的に無限という考えはなかったと思います。無限は神に属する概念であり、人間が住む「宇宙」は有限でした。)有限な宇宙の中心である地球から一番遠い外側にある天には「天球」と呼ばれる球がありました。中心が地球で天球が一番外側だったのです。天球は約一日かけて一回りします。球であるからこそ、球の上の点はすべて平等であり、その運動には始めもなければ終わりもありません。その天球にすべての恒星が張り付いています。したがって恒星たちは星座を崩すことなく、天球に乗って永遠に地球を回り続けます。こうして神に属する天の永遠性というイメージが浮かび上がるのです。こういうイメージで、人が住む地球を中心とする宇宙が、中世のヨーロッパでは共有されていました。
天球の考え方は、地上の運動は始まったり終わったりするが、天体は規則正しい運動を長く変わらず行う、それは何故だろうと考えた結果の、古代人の知恵でした。天動説といえば、頑迷な中世の間違った迷信に基づいていたというように解釈されがちですが、その単純な見方はヨーロッパ文化の薄っぺらな理解に過ぎず、天体が規則正しく動くことを理論的に解明しようという古代西ユーラシア大陸の知恵が、そこに詰まっていると理解しなければ、間違った解釈と評価を生むことになります。
恒星ではない天体もあります。そう、惑星です。恒星とは違った動きをする天体、すなわち惑星は七個でした。意外と思うでしょうが太陽も月も惑星です。恒星とは異なっているが、しかし規則正しい動きをする天体です。そして当時は望遠鏡で宇宙を調べる発想はありません。肉眼で見える天体で、しかも恒星とは違うが、規則正しい動きを持つ天体が惑星なのです。そうすれば惑星は太陽、月、火星、水星、木星、金星、土星の七つです。ちょうど曜日の数と同じですね。事実曜日の起源は古く、それは古くから七つの天体(惑星)と結びつけられていました。明治以降、社会の基本的リズムとして週を正式に導入した日本でも、日月火水木金土と並べて、火以下に星をつければ天体に、七つすべてに曜をつければ曜日になりますね。
惑星もそれぞれの天球に張り付いています。だから運動は永遠に続きます。しかし惑星たちは恒星の間を行ったり来たりします。そこで地球中心説の考えでは、それぞれの天球にその子供の天球の中心が張り付いていて、惑星は子供の天球に張り付いていると考えられていました。そして親の天球だけではなく、子供の天球もくるくる回っているのだと考えます。サイエンスライターのキティ・ファーガソンのたとえに従えば、メリーゴーランドのコーヒーカップに乗った人を考えてみたらわかります。大きな円盤の上にコーヒーカップやら子馬などが乗っていて、円盤が回ると同時にコーヒーカップも自由に回ります。そうすればコーヒーカップにのった子供は、右に行ったかと思えば、次に左に少し動くみたいな、複雑な運動をします。
このような考え方で、数学が得意な人たちが、様々な、だけど小さな修正を加えた結果、惑星の運動はかなり正確に予言できるようになっており、惑星の位置を表す表が、地球中心宇宙観モデルで書物として出版されていました。投資資本が利潤を生むという近代資本主義は、大航海時代に始まったとは言えずとも、少なくとも顕在化します。当時の経済を支える「専門家」もいました。でも星の運行を予測する専門家が必要だったのでしょうか?
大航海時代が始まると、船乗りたちは何日も続けて、海と空以外は何も見えない中で航海を続けました。船の位置を知るには、星を見るのが唯一の確実な方法でした。なにしろ天体は正確に運動しますから。惑星も含めて星たちの位置を知ることにより、自分の位置を判定していたのです。外洋航海の船の船長室には、必ず地球中心説に基づいた天文表の書籍が置かれていました。もちろん地球中心説による計算法を熟知した専門家しか、それを書くことはできませんでした。船の航行の安全を支える専門家として、非常に重宝されたのです。そして専門家を支える資本家は、当時は限られた王侯貴族だけでした。
地動説(Heliocentrism)
不動の地球を宇宙の中心に置く考え方を排除し、太陽を宇宙の中心だと考えたのがコペルニクスです。何しろすべての僧侶たち、王侯貴族たち(中世に大学に行くのはこれらの特権階級でした)が学んだ天文学の根本常識を否定するのです。コペルニクスは圧倒的な力を持った、反対者たちに向かわなければならないと、当然ながら予測しました。そこで注意深くその著作を準備し、初版のゲラ刷りをチェックしたのは死の床の中でだったということです。
とはいえコペルニクスが今の宇宙の姿を捉えていたわけではありません。それどころか、天球という考えも継承していました。何故天球が必要かと言えば、少なくとも惑星の永久運動を説明しないといけなかったからです。岩波文庫などでは「天体の回転について」と訳されていますが、正しくは「天球の回転について」という書が出版されたのです。
コペルニクスの予想通り、反対の声が集中しました。その議論の主たるものが、地球が動いているとは何と馬鹿げた考えだ、というものでした。だから日本語では地動説と訳されたのでしょう。あまり本質を捉えた訳とはいえないと思います。そして新しい時代を切り開く説は、本質を見抜けない、古く間違った固定観念を捨てきれない人たちから反対されるのだという、とてもわかりやすい例を「地球が動くとは何事か」という反対が与えてくれます。そしてガリレオの宗教裁判が、パラダイムシフトの困難さの例を与えてくれているのです。
しかし新しい太陽中心説に魅せられる若い人たちも各地に現れます。何しろ天体の動きをより簡単に説明できる可能性が、太陽中心説によって知的な若い人たちには見えてきたでしょう。そして地球中心説では、それ以上の天文学の発展は、若い人たちには絶望的に見えていたでしょう。実際現代の目で見ると、地球中心説が発展の余地はないことがよくわかります。明らかに天文学は停滞していました。多くの数学が得意な専門家たちの努力にもかかわらず。
ケプラーの奇妙な宇宙模型
時代を切り開く若い人の代表が、ガリレオとケプラーになります。
二人について面白いエピソードを紹介しておきましょう。
ケプラーは日本ではあまり知られていませんが、波乱に富んだ人生を送った人であり、またその影響や足跡は多くの地に残っており、もっとよく知られていい人だと思います。
貧乏な家庭に育ったケプラーは、高等教育を受ける資金がないため、新教の牧師になるための、学費及び生活費がすべて支給される高校(ギムナジウム)そして大学へと進学していきます。高校は世界遺産に指定されているマウルブロン修道院にあり、後輩に詩人ヘルダーリン、そしてヘルマン・ヘッセがいます。ヘッセの車輪の下はこの高校生活の経験を基に執筆されました。
チュービンゲン大学に進んだケプラーは、天文学のメストリン教授からコペルニクスの説の手ほどきを受け、強い感銘を受けます。ちなみにこの大学の新教系神学部の後輩には、先に述べたヘルダーリンとその同窓生として、ヘーゲルとフィヒテがおり、フランス革命の報道には3人で躍り上がって喜んだという逸話が残っています。ヘーゲルは先輩ケプラーを大変尊敬しており、今でもドイツの教授になるために必要とされる教授資格論文では、惑星軌道を哲学的・物理学的に正しく把握したのはケプラーだと持ち上げ、ニュートンはただケプラーの仕事の数式化を行っただけだと言ったりしています。
ケプラーはコペルニクスの太陽中心説に魅せられますが、一つの疑問に悩まされました。それは惑星の数についてです。太陽中心説では、太陽と月が惑星から外れる代わりに、地球が惑星になります。その結果惑星の数が水・金・地・火・木・土の六個となります。天王星は肉眼では見えませんから、当時は知られていませんでした。惑星の数六個にケプラーはひどくこだわります。何故惑星の数は六個なのか。現代の目から見ると何とも馬鹿げた問いだと思いますが、これは七個だと皆が満足し、当たり前とさえ思っていたことの、裏返しの証明でもあります。パラダイムシフトはこうして当たり前と思われていたことの再考を要求するのです。
宇宙は神秘的であり、ヨーロッパのこの時代の人々から見れば神様の創造物です。聖書では創世記の始めに天地創造の記述がありますが、曜日の数はこれに基づいています。惑星の数が天地創造に要した日数と同じであることは、偶然ではなく必然なのだと地球中心説を基に宇宙を考える人たちは思っていたでしょう。だから新しい天文学では惑星は何故七でなく六なのかとケプラーは問題にしたと考えられます。地球が宇宙の中心であるというパラダイムを、とっくの昔に捨て去っている現代人には、過去のパラダイムのもとでの考え方は、とても奇妙に見えてしまう良い例を、地球中心説から太陽中心説への移行の歴史は教えてくれます。パラダイムシフトは、古いパラダイムに伴う多くの常識を、常識ではなく間違ってさえいると否定していくのです。
ケプラーは何故惑星が六個なのかという問いの答えを思いつき、彼の最初の書物にします。「宇宙の神秘」です。おそらく「天球の回転について」に続いて初めての、強烈な太陽中心説の主張が入った書物でした。
右の図は、シュットゥットガルト郊外のワイル・デル・シュタットにあるケプラー生誕の家であるケプラーミュージアムに置いてある、「宇宙の神秘」に示された宇宙模型です。一番外側に半球がありますが、これが当時わかっていた太陽系の一番外側にある土星の天球です。土星の天球がじかに内包するのは、立方体ですが、その立方体はまた半球(本来は球)を内包し、これは木星の天球です。そしてその中には正四面体が見えます。さらにその中に球があり、これは火星の天球です。
このよう宇宙は球体とそれに接する正多面体で構成されているとケプラーは考えました。正多面体は五種類しかないことは、高校の数学で習うはずですが、その五種類はここに見える正六面体(立方体)、正四面体、正十二面体のほかに、正八面体、正二十面体です。最後の二つはさらに内側にあり、写真ではよく見えませんが、ミュージアムで直接見るとよく見えます。
これが何故宇宙模型なのだと不思議に思う人がほとんどでしょう。しかしケプラーはこれで惑星の数が六個であることが証明されたと思い込んだのです。中心に太陽がある宇宙は、太陽を中心として六個の惑星天球がある。その隙間の空間を埋めるのが五種類の正多面体だ。正多面体が五種類しかない以上、天球の間の隙間は五となる。つまり天球は六個であり、それが惑星に対する天球となる。したがって惑星は六個しかない。そう考えたのです。
ケプラーの法則発見まで
今から見ると何ともおかしな宇宙模型ですが、当時のコペルニクス主義者の間では、ずいぶん評価が高かったそうです。ケプラーから本を進呈されたガリレオは、そのお礼の手紙とともに、ケプラーのこの模型を褒め称え、自分も太陽中心説が正しいのだと思っていると書いているそうです。
ケプラーは上に記述した模型が正しいことを証明するために、苦心を重ねます。六個の球とその間を埋める正多面体が接しているならば、球の半径の比が空間幾何学で決まります。そしてそれは惑星の軌道半径の比になるはずです。そう考えたケプラーは、その半生を天体観測に捧げているティコ・ブラーエの処に行き、その助手の一人となります。ティコは一番複雑な動きをしている火星の軌道計算を彼に任せます。
複雑な計算を繰り返し繰り返し行った彼は、火星の軌道は楕円と考えなければ説明がつかないことを見いだします。有名なケプラーの第一法則です。これは天球の考え方からでは決して導き出せない結論で、事実ガリレオでさえ受け入れられないと反応したそうです。それほど画期的な結論でした。
ちなみにケプラーの法則を高校で習った人は、第一法則が単なる楕円ではなく、太陽を焦点の一つとする楕円であることを覚えておいででしょう。これは太陽中心説を決定的に正当化します。そしてニュートンがケプラーの三つの法則から、万有引力の法則を導き出します。それ以来ニュートンの物理学が新しいパラダイムとなり、物理学者と天文学者に共有されるようになりました。
地球が動くはずがないという間違った経験則に立脚する天動説では、このような進歩はありえなかったのです。
戦後日本は「東京中心説」ともいえる考え方と方法で、戦後の急速な経済成長を遂げてきました。ところが時代は変わり、長期にわたって停滞感が漂っています。しかし持続可能社会を創成していかなければ日本は成り立たなくなります。新しいパラダイムが必要です。現代から未来へ、新しいパラダイムシフトが求められています。