現代は西欧近代の延長である
現代社会は、少なくとも先進国の現代社会は、西欧近代の延長上にあります。そういう意味で、現代は西欧近代の延長にあります。
プーチンが引き起こしたウクライナ戦争で、ウクライナを支持しロシアを非難する立場の基本的根拠は、先進諸国の共有する価値観とされています。私はセレンスキー大統領とその国民を心から尊敬し支持していますが、その理由は単に先進諸国の共有する価値観を守りたいからではありません。それを超えた何かを、今のウクライナは持っていると感じるからです。それは未来世代についての強い思いです。恐らく未来の歴史では、ウクライナは21世紀初めに、その後の世紀を準備した国の一つであると教えているでしょう。
一方西欧諸国が現在ウクライナを支持している共有価値とは、民主主義と自由経済による資本主義です。この双方ともに、近代西欧諸国が生んだ価値観に他ならないことが、現代社会が西欧近代の延長上にあることを示しています。
17世紀に始まった西欧近代は、西欧中世から西欧文化を引き継ぎながら、西欧近代へと大きな変革を遂げました。その一端を担ったのは、他のページでご紹介した地球中心説(天動説)から太陽中心説(地動説)へのパラダイムシフトです。
16世紀にコペルニクスが死の床で唱えた太陽中心説は、17世紀になって若いガリレオ、ケプラーによって真剣に取り上げられ、近代哲学の父と呼ばれるデカルトにも多大な影響を与え(デカルトがコペルニクス説支持の本を書こうと思ったが、ガリレオ裁判でその試みを中止したというエピソードは有名です、そしてその判断はデカルトとしては正しい判断でした)、ケプラーとガリレオの科学的成果を統一してニュートンが近代的な意味の物理学を体系化したのが17世紀です。また17世紀初頭に起きた大事件-30年戦争-を終結させたウェストファリア条約は、近代的な意味の国家の概念の基本を提供し、国家間に結ばれる国際条約の最初の規範となった条約として、近代を国際的に(そのころの国際的にとは西欧内部を意味していました)確立する条約でもあったと言われています。
しかし17世紀は近代の始まりであったと同時に、中世の最後のあがきにしか見えない、中世の価値観にしがみついた時代でもありました。魔女は現在では漫画の中にしか見ることのないファンタジーですが、魔女裁判は中世には実際にあった重い現実の裁判であり、裁判で魔女と判定された人は(多くは女性でした)、火あぶりによって殺されたのです。その魔女裁判の件数が最も多くなったのは17世紀でした。近代を産んだ17世紀は、現代に通じる近代科学を産んだ世紀だったので科学革命の時代と呼ばれますが、魔女として死刑になった被害者数がピークになった世紀でもありました。このように大きなパラダイムシフトの時代には、新しいパラダイムを理解できず、古いパラダイムに縛られた人たちが、後から見れば信じられないような振る舞いをすることもあるのです。
そのような過渡期である17世紀を経て、西欧近代の力の源泉となる、民主主義革命と産業革命が、18~19世紀に西欧各国で起こります。
未来は現代の延長ではない
現代は化石燃料で成り立っている社会です。これはどんなに強調しても、強調しすぎることはありません。そして資源の枯渇を無視してまでも、莫大な量の化石燃料を消費し始めたのが産業革命でした。
産業革命以前は、人類が使うエネルギーはすべて再生可能エネルギーでした。人力、馬力、主として生命体のエネルギーに頼っていました。江戸時代までを考えてください。エネルギーとしては人や馬を使っていました。人も馬も「再生可能」ですが、使い過ぎれば「再生」されず、減少に悩むことになります。化石燃料という「再生不可能な」エネルギーを大量消費し始めたのは、自然の制約「使いすぎれば減少する」という事実に、人類の知恵を使ってその制約を克服しようと考えたからでした。
自然を征服する。そう考えて近代西欧の考えを受け継ぐ現代人は活動しています。「簡単にはコントロールできない自然を、イノベーションによって征服しコントロールする」それが近代西欧が提示したパラダイムです。17世紀以来急速に発展した自然科学が、その手段を与えてくれると考えられました。
しかしそのパラダイムには限界があります。17世紀のニュートンが考えもしなかったエネルギー保存則が、他ならぬ産業革命の時代に、ニュートン物理学を論理的に再構築する中で、明らかになっていったのです。この法則は、無制限の「発達」を「保存則」という単純な法則で、自然からの制約として与えるものでした。19世紀の数学者ポアンカレがそれを見抜いています。そのころニュートン物理学を再構成する中で、ラグランジュやハミルトンが、量子力学にも通用する土台を作りましたが、それはエエルギーの概念を介してでした。ポアンカレはこれらの試みに、ニュートン物理学の問題を解く為に有用な部分もあるが、これはむしろ限界を見いだすことに役に立つのかもしれないと。19世紀にエネルギーの考えが普及する課程の話は、また別ページで考察していきます。
化石燃料を例にとって話を進めると、化石燃料は有限な資源であるから、使えばそれだけなくなるという、簡単なことです。自然を記述するエネルギー量は、人為的な概念である利息という概念を一切持ちません。エネルギー量は保存する以上、自然法則に従う化石燃料は、金融資産とは違って使えばなくなり、再生産は不可能であるということです。さらに言えば、化石燃料は生命体が持つ太陽からの恵みのエネルギーを、生命体が死んでも化石として保存しているのですが、恐竜の化石などを見てもわかるように、生命体のごくわずかな量が化石として残るのであり、現代まで地球に残っている化石燃料は、地球の歴史の中の万年を単位としてその数百倍、数千倍、あるいは億年を単位としてその数倍のスケールで自然の力により造られた物であって、百年を単位とする人為的な年数で、「再生」は全く絶望的であるということです。
そのような科学的理解をしなければ、時代を切り開くことができないという現代社会の中で、化石燃料でなり立っている組織が著しく多いのです。残念ながらと言うべきか当然のことと言うべきか、化石燃料で成り立っている組織はそれを認めたがらず、何か解決策があるだろうと思っています。いわば古いパラダイムにがんじがらめに囚われているのです。そして現代社会がいかに化石燃料社会であるかについての真実を、あらゆる煙幕を張って隠し続けているようです。例えば不毛な原発の議論を前面に出すことによって。原発が引き起こす様々な場面における分断について、いかに不毛かを世界中が認識すべきです。何故なら原発が提供する電気は(むろん原発は電気を供給する目的を持つ超危険物であり、それ以外の役には立っていないという客観的認識が必要です)、原発が生産する電気は、世界中で消費されているエネルギーのわずか2%に過ぎないのです。これはIEA(国際エネルギー機構)が公表するデータから明らかです。
化石燃料で成り立つ組織の中の人々がいかに古いパラダイムに縛られているかを見るには、組織ではないが東京都に住みまたは働く人たちが残念ですが良い例になります。東京という町は化石燃料でなりたっています。仮に化石燃料が無くなれば、一日たりとも東京は成り立っていかないでしょう。もちろん急になくなることはないから、そのうちに何とかなると皆が考えています。しかしこれが古いパラダイムを残すのですね。東京都で消費されるエネルギーを、すべて地域の再生可能エネルギーで置き換えることが無理であることは簡単な計算ですぐ解ります。なのに新築の家屋の屋根にソーラーパネルを設置することを義務づけるというようなことを考えるのが、残念ながら古いパラダイムに囚われている証なのです。少しでも再生可能エネルギーを導入するのはいいことではないか、そう考える人が東京には多いでしょう。しかし再生可能エネルギーは、すでに東京の建築物のすべての屋根で受ける以上の導入が全国で行われています。そしてその多くが東京に送られるためのエネルギーとなり、その産地では自らの土地の自然破壊に苦しんでいる処は多いのです。環境を守るためという名目で導入される地方の再生可能エネルギーは、他地方に売られることを前提としているが故に、生産地の深刻な環境破壊をもたらすのです。その環境破壊は神宮外苑に計画される建築物の比ではありません。狭く限られた土地でしかない東京のエネルギーのために、日本全国の広大な土地で、自然破壊が進むのは異常であり、日本を亡国に導くと言わざるを得ません。
再生可能エネルギーで成り立つ社会は現代社会とは異なります。特に莫大な電力を使って集中した都市は、再生可能エネルギーに支えられる社会創成の妨げとなり得ます。東京一極集中は、戦後経済を急成長させるために始まりました。今やその役目は終わったことを認識しましょう。事実失われた30年の時代は、日本における莫大な電力消費の増加で始まりました。その増加した電力は、当然東京を中心とする首都圏で消費れたのです。東京は便利になったかもしれないが、もはや東京と20世紀型のエネルギーの組み合わせには、日本経済をけん引する力はないと示したのが、失われた30年なのです。
東京に電力を今以上に送らない、そして送らせないという意識が必要とされる時代になったと認識すべきでしょう。今や三千万人を超す首都圏の人の1%でも、そのことを理解し考え始めてくれたら良いのですが。もしわずかでも、それを自身の頭で考えることを始める人たちが東京に生まれたら、自由な思考を自慢する人が多い東京です。指数関数的にその人数は増え、化石燃料依存脱却の波が日本で生まれるでしょう。そうであることを未来のために心から願っています
そして東京以外あるいは首都圏以外の地域の人にも覚悟が必要です。自分の住む土地を未来に残すために何が必要なのか、持続可能社会を構成する、世界の一地方として何ができるのかをしっかり考えるのです。そしてその思考は持続可能社会を築く重要な礎石となるでしょう。私は琵琶湖疏水がその参考になると考えています。