琵琶湖疏水を世界遺産に
「琵琶湖疏水 国宝に」
今日令和7年5月17日の京都新聞朝刊の第一面に掲げられたタイトルです。京都新聞とともに私もこの快挙に心から喜びを感じる者です。そして同紙23面にある疏水船復興を推進された市民団体の代表ー鈴木靖将さんーの言葉「悲願である世界遺産登録への弾みになってほしい」に、心から同感する者です。
地域自然エネルギー産業革命
琵琶湖疏水は世界遺産にふさわしいと、以前から私は思っていました。何故なら西欧型の近代化ではなく、日本伝統文化に根ざした近代化の成果が琵琶湖疏水だったからです。そしてそれは20世紀までの価値観が崩れかけている現代だからこそ、世界的意味を重く持っているのです。
幕末日本は産業革命を通して近代化を果たした西欧列強の侵略の可能性を退ける為に、世界へ向けて開国を果たしました。そして明治となって、西欧諸国に習って近代化が推し進められました。その過程で千年の日本の都京都は衰退の危機に陥りました。
その衰退からの復興をかけて、壮大な琵琶湖疏水計画を北垣国道が考え出しました。彼が得た答えは「京都に地域自然エネルギー産業革命を起こす」というものでした。琵琶湖疏水は世界で最初に行われた地域自然エネルギー産業革命の結果です。そしてそれは21世紀初め全人類が今対面している諸問題を乗り越え、真に持続的であり、なおかつ科学技術の恩恵を全世界の人々が受けることが出来る社会を作り出すために、恐らく最も普遍的価値を持つ考え方であると考えられるのです。
琵琶湖疏水起工趣意書
琵琶湖疏水が何故計画されたか、それを知るには琵琶湖疏水起工趣意書を読むのが一番です。これは琵琶湖疏水記念館に残っていますが、衰退した京都の永続的復興の道筋を見つけてくれと、京都府知事に赴任するに当って伊藤博文と松方正義に強く依頼された北垣が、赴任以来考察を深めたどり着いた疏水計画の実行を、初めて公に問うために書いた文章でした。
北垣は彼が得た結論を府民に広く支持して貰うために、府の主だった人々を集め「勧業諮問会」なる委員会を開きます。そして難工事が予想される工事の実行についての是非を諮問するのですが、工事の趣旨を説明するために琵琶湖疏水起工趣意書を提出します。ここで主張された内容は、現代の言葉で表すとまさに「地域自然エネルギー産業革命宣言書」と名付けるのが一番解りやすい内容になっているのです。
起工趣意書の内容
北垣は京都復興の趣意書を桓武天皇以来の京都の歴史から説き起こします。そして千年の歴史の中で、京都は様々な工事を行ってきたと指摘します。「現在の京都は桓武天皇の時代の京都ではない」と言います。幾度となく災禍の結果復興の工事が行われ、その度に京都は生まれ変わりますが、ますます自然に溶け込んだ、京都の魅力を増す工事だったことは、当時の京都の主だった人々の共通の認識だったでしょう。考えて見れば、日本で伝統的に行われてきた工事は、災禍からの復興などの目的を持った、自然の恵みや地域の特性などを考えて、地域の自然を生かしその魅力を高めるための工法でした。西欧流の技術ー自然を克服し人工的な空間を作るーという発想を持ったものとは、根本的な違いがあります。
更に北垣は江戸時代に何故京都が栄えたかを考察します。 そして京都の工芸品の質の高さが、京都にある全国の藩邸を通じて大名やその家臣達に伝わり、日本全体の工芸品の質の高さを生み出したと評価します。そして言うのです。「京都は商業の町ではない、工業の町だ」
その時代まで、日本で工業と言えば、手作業での製品を意味します。機械の力で量産される現代の工業をイメージすると、真意をあやまります。現在京都に観光で来られる外国の人々も、京都の主として手作業による製品を高く評価して購入されていると思いますが、これが北垣が言う工業です。
北垣は言います。京都は工業の町だ。そしてそれを生かすためには、機械の力を借りなければならない、と。機械の力で製品を作るというのではなく、手作業での工業製品の質を保ち、数多く生産するために、機械の力を借りるという発想なのです。今も京都各地に手作業の工場が多く残っていますが、まさに北垣が考えたように、機械の力を借りています。北垣にとって工業は、手作業が基本であり、つまり熟練の職人さんが行うものであり、機械はそれを補うものでした。
北垣は機械の力を借りなくてはいけないと言いますが、それには機械を動かす動力が必要であると、直ちに言います。動力すなわちエネルギーです。そして彼は言います。動力には火と水がある。
火は石炭のことです。水は水力。現代の言葉に直せば、化石エネルギーと再生可能エネルギー(日本では自然エネルギーとも言いますね)になります。しかし北垣ははっきりと化石エネルギーを排除します。その理由は高価につくことと、今の言葉で言うと環境に悪いことです。
そう考えた北垣は、水力をエネルギー源とすべく、京都の川をすべて調べます。趣意書では京都の川をすべてあげながら、それぞれ適さないと結論を引き出します。そして最後に琵琶湖から水を引いてきて鴨川に落とせば、この高低差は動力としての水の供給に充分役に立つものであり、これを使って京都を復興できると勧業諮問会で人々を説得するのです。
勧業諮問会
勧業諮問会は三日連続して開かれました。諮問会では一人一人が意見を述べます。三日連続で議論した結果、全員が一致して琵琶湖疏水工事に支持を与えます。北垣は多数決というやり方は排除したとはっきりと日記に書いています。
京都新聞の今日の記事には、国宝と指定された南禅寺の水路閣の写真が載っていました。起工趣意書を読む限り、最初の計画には南禅寺に水を通すことは想定されていなかったと推察されます。南禅寺の水路閣は最初の計画では、想定されなかった建物と思われます。後に南禅寺の境内を通すために、境内の景観を壊さず、むしろ高めるために創られたのが水路閣です。水路閣が今回の国宝指定の象徴となる建物なのですが、初期には計画されていなかった。南禅寺が良く境内を通すことに賛成したなと皮肉に笑い飛ばす町衆もおられますが、勧業諮問会が三日続けて議論して、皆が納得したものだったからこそ、南禅寺も境内通過を許可したのではないでしょうか。京都復興の為の琵琶湖疏水はまさにオール京都の支持を得た事業でした。
反対には誠意を持って対処した
京都の為の事業には、外からの反対が起こりました。これは起工趣意書の後反対が起きたのですから、趣意書では記述されていません。しかし北垣の日記にはっきりと記述されています。滋賀県と大阪府の反対に出会います。
北垣はそのたびに増加する予算を、議会で説得を続けます。滋賀県への保証は、京都新聞の凡語欄に、今も毎年「疏水感謝金」を送っているとありますが、その時の名残が百年以上続いているのです。そして百年以上経った現在でも、感謝金というのがふさわしいと、現地の論説で論じられるのです。
北垣の言葉に根本的発想の違いを見る
北垣の文は名文です。古文調ですので現在の若い工学部の先生なども読めないと言いますが、世界に誇るべき大工事の発案者の文を読めないと工学部の先生が言われるのはちょっと寂しい気がします。一流の工学製品を創るためには、発想が必要であると思うのですが。
北垣の文からは、明治の人達の発想が如何に大胆なものであったか、如何に伝統を踏まえて時代の変化を乗り終えようとしたかが、迫力を持って伝わってきます。
そしてその考え方の基本は単純なのです。千年続いた京都はたびたび災禍に出会ってきた。そのたびに京都は対策の手を打ってきた。そして質の高い産物を創りだしてきた。これからは機械の力を借りるが、それは未来に伝統を受け継ぐためである。
そのような発想をしてきたことが、北垣の文を読むとよくわかります。
北垣はあるとき日記に書きます。京都の井戸が涸れがちである。これは樹木を乱獲したからである。
京都の人は昔は井戸の水で生活をしていました。この涸れがちな井戸を補う為にも琵琶湖疏水が必要だということになりますが、乱獲を許さないという発想が、石炭を排除する発想に連なります。石炭を排除する理由を、北垣は京都をロンドンのようにしてはいけないとはっきりと言明しています。当時東京では、ロンドン、パリ、ニューヨークは学ぶべき対象だったし、今でも残念ながらそうなのですが、北垣は100年以上先を見越したように、伝統ある京都が西欧から取り入れるべきものや考えの善悪をはっきりと認識して、伝統に沿う形で西欧の力を借りるのです。ちょうど機械の力を借りようと考えたように。そこにはその土地の人の伝統と生活を如何に向上させるかという根本的発想がありました。
哲学の道での光景
純粋経験
哲学の道は、哲学者西田幾多郎が好んだ散歩道であり、それにちなんで、このように呼ばれるようになりました。
その哲学の道を現在訪れると、西欧の人々ばかりではないかと感じます。日本人の姿はほとんど見当たりません。
何が欧米人をこのように引きつけるのか、それを考える必要があると思います。哲学の道は何を発信しているのでしょうか? そして西田は何を哲学の道から感じ取り、それを好んだのでしょうか。
哲学の道は南禅寺の水路閣の上を流れた疏水の水が更に隧道を抜け、若王子に出たところから始ります。若王子から疏水の水は静かに山肌を水平に流れ、北に向かって銀閣寺に向かいますが、銀閣寺から若王子まで流れに沿った小径が哲学の道です。
不思議な話です。山肌を水平に静かに流れる水があるでしょうか? 自然な水の流れは当然下に向かって流れます。水平な流れであること自体、人工的なものであることを示しています。 しかし訪れる人は誰もが、そこに見るのは人工物ではなく、自然の核心を捉えた自然を見ているのだと思います。哲学の道では人は純粋経験で、人工の助けを借りて自然の本質を見せてくれる空間を、哲学の道に見いだすのです。
西田哲学は純粋経験から始ります。デカルト哲学が「考える我」から始るのと好対照を示します。西田の純粋経験は、毫も思考を経ることがない経験が純粋経験だと言うのですが、そこから始めないと本当の自己の思考が始らないと西田は考えるのです。明らかに哲学の道では、人の思考以前の自然の純粋経験があります。水って下に流れるのじゃないの、って考えるとおかしいなと言うことになりますが、哲学の道では純粋経験として自然を感じることができるので、西田もそれにひかれ、今の西欧の人々もそれに引かれているのでしょう。
何故京都人は琵琶湖疏水を支持したか
明治期京都人は何を考えたでしょうか? 千年も続いた都人という誇りをはぎ取られ、町は衰退の危機に落ちいっていたのです。なんだか今の日本の地方全体の気持ちを先取りしたとも考えられませんか? 地方から出ていった人が活躍して東京が栄えているのに、地方は寂れていくと。 また大戦後すべての日本人が体験したことのようにも思いませんか? そう考えれば、150年前の京都の人々は、現代の日本の地方を先取りしていたのです。70年後の日本人の経験を先取りしていたのです。
それを痛切に感じ思考を巡らせたのが北垣国道です。そして見つけたのが京都の伝統を機械の力を借りて強くするために、水力で産業革命を起こそう。そういうスローガンでした。京都人に希望を与えるスローガンでした。そのためオール京都で支持されました。さすがに京都の人々は千年の都人でした。
工事は優れた技術で実行に移されました。島田道生という人が西欧流の測量を行い、琵琶湖から蹴上に到るまで、等高線を見事に浮かび上がらせます。そして琵琶湖疏水目論見実測図という図面を書き上げます。それに従って若き技師田邊朔郎が困難な工事を実行します。田邊はまだ出来たばかりの東大工学部(当時は工部大学校)を卒業したばかりでした。また最初の計画の水力を水力発電に変え、南禅寺を通ることになった水路の為に水路閣を設計しました。そして島田は蹴上から銀閣寺に到る道を測量し、山肌の水平な道を設計しました。哲学の道を設計したのは島田でした。
ほとんど流れないかのような山肌を縫う水流
哲学の道を歩き、その魅力を純粋経験で感じ、すなわち毫も思考(常識を含めた既存の思考)を含めず無心に魅力を素直に捉え、その上で哲学の道の魅力の原因を考えると、ほとんど流れないような水の流れに気が付きます。哲学の道に沿った疏水は静かに流れています。静かに北に。
静かに北に流れるという簡単なフレーズに、真の京都人は二つの反常識を見るでしょう。まず京都では水の流れはすべて南に流れます。鴨川も高野川も白河も桂川も。そしてすべて心地よくはあるが速さを持った流れです。その証拠に京都の川には段差がほぼ等間隔に並び、そこで水は小さな滝のように落下していきます。こんお構造は、日本中に京都の川のすがすがしいイメージとして知られているでしょう。北山を背景にして、川の段々つきの鴨川の流れは、京都の象徴として知られています。京都の川はすべて南向きにそれなりに速く流れているのです。
哲学の道の疏水はそれに反して北向きに恐ろしいまでに静かに流れているのです。明らかに人工物です。調べてみると若王子から銀閣寺道までの流れには、段差は一切設けられてはいません。
こういう流れを作り出すのは、京都の職人には初めての経験だったでしょう。それを可能にしたのは三角測量法でした。
以下続きますし推敲を致しますが、とりあえず2025年5月17日に書き始めました。upします。
琵琶湖疏水の話はこのHPでも主要な話題です。未来社会建設へ向けて大変重要な話題と考えています。今回疏水関連施設が国宝に指定されるというニュースに、琵琶湖疏水についての詳しい話をお伝えしたいと、このページを琵琶湖疏水のページの筆頭子ページとして書いております。是非親ページもご覧下さい。