琵琶湖疏水

最近暗いニュースが多いですね。未来に向けて、明るい話題を考えましょう。
21世紀ある時点で、人々はきっと考えはじめます。脱炭素と言いながら、思うように脱炭素は進まないじゃないか?脱炭素という発想は、何か根本的に間違いがあるのじゃないだろうか?
 そのとき琵琶湖疏水の話を人々は思い出すでしょう。
 琵琶湖疏水の目的は、地域再生可能エネルギーで、衰退した京都を復興させることだったのですから。

北垣国道

 琵琶湖疏水は、衰退した京都の復興という大問題に直面した第三代京都府知事北垣国道が、その解決策として案出した、一世一代の大計画でした。北垣に京都の復興という大問題を課した伊藤博文も「実行できそうもない大計画だな。しかしそれしかないかも知れないな。」と言って尻込みしたほど、実現性が疑われる大計画だったのです。でもその大計画は実行に移され、工事は見事に成功したのです。そしてその偉業の結果は「哲学の道」を初めとして、京滋の地に広く見ることが出来、京都市民をまた京都を訪れる人達を、今もなお楽しませています。そして何より、北垣が琵琶湖疏水を計画した真の理由にこそ、日本伝統文化の上に立って「脱炭素」を成し遂げる為のヒントを見ることが出来るのです。

哲学の道

若王子での運河(哲学の道)

「若王子から鹿ヶ谷村近傍は、其の山麓の高地に運河ありて、下に白川の流れあるのみならず、土地の勾配はなはだ急なれば、水車の設置に尤も適当なる疑いを入れざる所なり。」
 琵琶湖疏水記念館に残る、琵琶湖疏水起工趣意書のなかで、北垣が琵琶湖疏水の目的を述べた後、いよいよその工事をどこで行うかを明示する、高揚した場面の出だしの文です。若王子から鹿ヶ谷近辺の山麓の高いところに運河があると言うわけですが、この運河を作り出すことが琵琶湖疏水の主目的でした。そしてここが今に残る哲学の道の南側の入り口になっています。
 伊藤博文も尻込みした難工事は、その後松方正義の取りなしにより、大久保利通企画の安積疏水の竣工式に立ち会い、工事の規模を調べ、また若き技師田邊朔郎との出会いなどを経て、京都の勧業諮問会で始めて公に提案されます。勧業諮問会に提出された諮問文とともに提出された資料が、琵琶湖疏水起工趣意書でした。勧業諮問会は3日続けて開かれ、各自が自由に発言し、公論の結果全員一致で起工が承認されました。ここに難工事琵琶湖疏水の幕が切って落とされたのです。

哲学の道ー若王子から西を見る

哲学の道の南端ー若王子から西を望む写真です。空がうっすらと赤みがかり、黄昏が迫っています。ここから見る夕日は格別です。
 山麓の高みにあるので、甍の並びが美しく夕日に映えます。屋根の後ろの森は吉田山。今はもう知る人も少なくなりましたが、第三高等学校の寮歌「逍遙の歌」で歌われた丘です。木々を突き抜けて細く天をつくのは、真如堂の三重塔。
 ここから北へくねくねと曲がりながら銀閣寺まで続く道が哲学の道です。道に沿って水が静かに流れていますが、これが琵琶湖疏水です。不思議なことに山中にあって、水路に段差はなく、ほぼ水平を保ちながら北へ流れます。これも不思議なことで、京都の川の流れは、すべて南へ流れます。この流れが人工的なものである証です。
 哲学の道は、日本を代表する京大の哲学者西田幾多郎が愛した散歩道。哲学の道と名付けられた所以です。北垣は京大の設立者でもあります。大阪から京都へ第三高等学校を移転させたのは北垣だったのです。これが京都帝国大学の母体となります。若王子から山道を入れば、同志社大学を設立した新島襄とその妻八重の墓もあります。北垣と新島夫妻とは深い親交がありました。
 でも琵琶湖疏水起工趣意書によると、若王子には水車が設置される予定でした。何故水車が必要だったのでしょう。琵琶湖疏水が未来への指針を与えていることが解るでしょう。

もう一つの近代化

明治の産業革命と地域再生可能エネルギー産業革命

明治維新の後、明治政府は都を東京に移し、欧米に追いつくべく、日本を近代化させるために力を注ぎました。近代化の為に富国強兵が国家的スローガンとされました。国をまとめるため、天皇は東京にお移りになり、そのため京都が著しく衰退しました。富国強兵・殖産興業のため、明治政府は工業化に力を注ぎ、石炭を大量に使う機械化を取り入れました。日清・日露両戦争の勝利などを経て、明治時代の末には、日本は西欧諸国に追いつき、世界史の中に躍り出ます。
 一方京都は、明治初期に天皇が去られた後、人口が急減しました。そこで伊藤博文と松方正義が、第三代京都府知事に赴任する北垣国道を呼び、京都の末永い復活の道を考案してくれと頼むのです。今の言葉で言えば、京都の持続的繁栄の道を探してくれとなるでしょう。
 そこで北垣は徳川氏の250年で、京都は何故栄えたかを考えます。そして彼の結論は「京都は商業の町ではない、工業の町だ。」と言うのですが、工業とは伝統工芸のことです。
 北垣が残した日記を集め、それを編集した書物があります。北垣国道日記「塵海」(思文閣出版)です。これを読めば北垣の思考、琵琶湖疏水工事へ向けての経緯などがよくわかります。しかしながら北垣の文体は名文ながら古い文体で、これを全部読み通すのには労力と時間がかかります。そこで簡単に彼の考えをまとめてみます。
 北垣は徳川幕府が各藩に京都の藩邸を置かせたことに注目します。それによって質の良い京都の製品が各藩によって購入され、全国に広まっていったことを思い浮かべます。それによって全国の人が京都の高い品質にあこがれ、争って京都の名品を買うことになったのだと。
 そこで彼は考えるわけです。「京都は商業の地ではない。工業の地だ。」と。そして京都を復興させるには質の高い工芸品を機械の力を借りてつくりだし、それを全国に、また世界に買って貰うことだ。」
 そしてこう考えます。機械を動かすには動力が必要だ・・・。
 動力とはもちろん今の言葉で言えばエネルギーです。「動力には火と水がある。火(石炭)は高くつく。また環境に悪い。そうだ。水が良い。」
 そう考えた北垣は桂川、加茂川、高野川、宇治川・・と京都の川をすべて考慮します。そして彼の結論はこれらの川はすべてダメだと言うのです。唯一水量がある桂川は京都から遠いと。これも面白いですね。時代を感じさせます。
 しかし彼が石炭を排除した理由を見て下さい。「石炭は高いし、環境に悪い」というのです。もちろん環境という言葉は使っていません。しかしロンドンの例をあげ、京都をロンドンのようにしてはならないと言っています(琵琶湖起工趣意書)。また当時は石炭は輸入におっており高価な物でした。現代に通じる理屈ではないですか。化石燃料は環境に悪く、そして将来間違いなく高価になるのですから。
 衰退した地域ー京都ーを、地域の再生可能エネルギーを使って産業革命を推進する・地域再生可能エネルギー産業革命と呼びたくなるではないですか。最初に琵琶湖疏水起工趣意書を読んだとき、私は素晴らしく感動したのを覚えています。この趣意書は世界で最初の地域再生可能エネルギー産業革命宣言ではないかと。そしてそれ以来、琵琶湖疏水が未来社会を切り拓くモデルになり得ると考え続けています。

琵琶湖の水を持ってくる

 繰り返すようですが、琵琶湖疏水にいたる北垣の思いは、彼の日記「塵海」に書いてあり、ここではそのあらすじを述べているだけです。興味ある皆さんには、是非「塵海」をお読み下さいと申し上げておきましょう。
 さて京都を復興するために水力を使って工業(伝統工芸)を盛んにするには、水力でエネルギーを得るが一番だと考えたにもかかわらず、京都の川はことごとく使えないと知った彼はどう考えたのでしょうか? 
 彼は最後に琵琶湖から水を引いてくることを考えます。そして琵琶湖の水面が、鴨川の三条川原より140尺ほど高いと知った北垣は、「琵琶湖水を疏通して東山麓に高く取り、百尺以上の落ちを附けて水車の用に充つるには、天然の適度なり。」と考えて琵琶湖疏水を思い立ったのです。その他水運の便、灌漑の利、飲用水・下水の改良など様々な利をもたらすと思いつくのです。事実琵琶湖疏水起工趣意書にも七つの効能として七項目あげられていますが、エネルギーが一番の目的でした。

水車から電気へそして路面電車

勧業諮問会で決定された琵琶湖疏水工事は実行に移されます。そして様々なドラマがあり、琵琶湖疏水は最初の形を大きく変えていきます。琵琶湖から第一隧道を経て山科を通り、天智天皇陵の脇で再び隧道に入るまでは、ほぼ初期の計画通りなのですが、この隧道の出口と最初考えられた若王子よりもっと南の蹴上が第二隧道の出口となり、また初期の構想であった水車は、水力発電に置き換わりました。その結果が現在の疏水を形作っています。その話は大変面白く興味あるものですが、1ページに収まりきれないため、子ページなどで改めてご紹介したいと思います。
 しかし初期の目的であるエネルギーを京都の地に持ってくるについては、まさに電気エネルギーに変わっただけで、琵琶湖疏水の目的が変わったわけではありません。そしてその電気を利用して、日本初の路面電車が京都に走ることになります。今でも蹴上に水力発電所がありますが、現在の目から見ると小規模な水力発電所です。しかしその電力で路面電車が走ったことは、電車が地域のさほど大規模でもない再生可能エネルギーで走らせることが出来ることを100年以上前に実証して居たことになり、未来に対する大きなヒントを今に残しています。
 計画の変更を含めた工事の記述は、子ページ孫ページに書いていくつもりです。
 このページでは主として琵琶湖疏水計画の始まりをお話ししました。琵琶湖疏水の現在の様子と合わせ読んでいただければ琵琶湖疏水がより良く解ると思います。

また北垣の考え方は、新しく日本の、そして持続社会へ向けたパラダイムの核心になり得ると思います。パラダイムシフトという、科学の進歩に関してトーマス・クーンが提案した考え方をご紹介します。下記のページへお進みください。そしてさらにその先のページを読んで、琵琶湖疏水が新しい時代を拓くパラダイムシフトになるのではないかと考えている私の考えを聞いてください。