2023年の新年を迎えこのページを作成している。
2022年八月、NHKが混迷の世紀というタイトルで、シリーズの番組を始めた。その再放送が2023年正月にも行われた。21世紀幕開け時には、グローバル時代の幕開けと喧伝され、人類にはさらなる進歩と繁栄が待っていると期待されたが、グローバル化の大きな結果が皮肉なことに世界的なコロナ禍であった。グローバル時代でなければ、動物経由の新型ウィルスは、中国武漢でのローカルなニュースでしかなく、日本ではほとんどの人が知らずに過ぎただろうに。
コロナ禍をきっかけとする二つの惨劇
コロナで世界が委縮している中で、チャンスとばかりプーチンがウクライナ侵攻を始めた。しかし独裁者プーチンの読みは外れ、初期の目的を達成しない中、ウクライナの人々の頑強な抵抗と、西側による支援とで、ウクライナ善戦の結果、戦乱は長引いている。ウクライナに栄光あれと、私も心の中で叫んでいる。
もう一つの大国ながら独裁者が支配する中国では、ゼロコロナの方針を急激に変え、無理やりに日常生活に戻す方針が進行しつつあり、コロナ感染者が急速に増えている。私が面識ある中国人の知人もすでにかなりの人が感染したようだ。当然多数の死者が出ているはずだが、当局はコロナによる死者はごくわずかだと発表している。
しかしどう考えたってそんなはずはない。年末にかけ京都でもコロナ新規感染者が増え、一日に二千人ほどの新規感染者がおり、コロナによる死者も毎日数人出ている。中国の人口と急激な規制緩和を考えれば、短期間で億人単位の新規感染者が出ているだろう。それを確信させる私的な知人たちの感染情報である。だとすれば短期間で十万人規模あるいはそれを超える規模の死者が出ていると考えるのが普通の考え方だ。
伝聞でしか情報が入る由もないが、伝聞による現実は、ゼロコロナ政策を転換し規制を撤廃してから、死体焼き場は大混乱に陥っており、遺体を焼くのはもはや一体毎ではなく、誰の骨か不明になるのもかまわず、多数の遺体を同時に焼いているという。またコロナで死んだという人を火葬場は引き受けないそうだ。じゃぁどうしているのかはわからない。もちろんこのようなことを当局は発表しないしSNSはつぶされる。真相は伝聞ではわからない。だが病院でも死体処理場でも大混乱が起きていることは間違いないだろう。ロシアも戦死者を発表していないとの報道だが、一人一人の人の生死は厳然たる事実以外の何物でもあるまい。それも戦場ではなく、日常生活の中での死である。隠せるものではない。
これは武漢で問題が発生したにもかかわらず、それを無理やりアメリカのせいにする自己主張を掲げ、その責任を回避する目的でもあろうゼロコロナ政策で強権を発揮し、状況が悪いとなれば規制緩和を急激に行った習近平の大失策であろう。二十世紀型のヒトラー・スターリンを受け継ぐ、古いプーチンの独裁政策を現代日本では格別重視するが、二十一世紀型とも考えられる独裁者習近平のこの失政を、文化をもともと共有するはずの日本は、もっと重視すべきなのではないかとも思う。
第二次大戦時との違い
現代の国連(United Nations)は日独伊の枢軸国に対して、連合国(United nations)が完全に勝利した結果できたものである。その国連が21世紀になって機能しなくなったのだ。ロシア並びに中国は、連合国側の主たるメンバーとして米・英・仏と並んで常任理事国となり、 ウクライナの侵略者と協力者あるいは少なくともその傍観者でありながら、戦後侵略を阻止するための組織に生まれ変わった国連に、明らかに対立している。
20世紀半ばには、指導的な国々はナチスや日本の軍国主義に、完全に打ち勝つ力と仕組みを持っていた。そこで20世紀後半の長きにわたった安定が保たれた。また完全勝利があったからこそ、アウシュビッツなどの惨劇が明らかにされた。
現在進行中のウクライナあるいは中国での惨劇は明らかにされる日が来るのだろうか? あると期待したいが、どうもそういう解決はなさそうだと感じている。これは言い換えると二十世紀型の常識‐正義感に捕らわれると、事態を乗り越える術がない可能性があることを意味している。二十世紀型の価値観に固執していると、事態の解決を間違える可能性があることを、我々は認識しなければならないのだろう。
近代の終焉
近代の終焉というと何それって顔をされる日々が続いた。限られた数の思索家がそれぞれの立場で近代の終焉という警鐘を鳴らされている。近代の終焉すなわちより良い未知の時代の始まりが現在進行中なのだと考えれば、今世紀が産みの苦しみを伴う混迷の世紀であるのは当然なのだ。近代は西欧で中世という時代の終焉の中、混迷の時代の中で生まれた。同様のことが今現在進行中なのだ。
近代の終焉の中で目指さなければならないことは、二十世紀型の秩序の安定ではなくーそれを目指せば社会の自殺を意味する、何故なら終焉する近代にしがみついての心中を意味するからだー近代の持つ欠点を発見しそれを是正すること、近代の考え方と根本的に異なる自らの文化を再発見し、それを平和裏に次の時代の柱に持っていくことを考えること、その二つであると新年に当たって私は思っている。
持続可能社会への移行
混迷の世紀に我々は何をすべきか? 目標は明らかである。持続可能社会を作ることだ。しかしこれはCO2排出をトータルでゼロにすることではない。近代を延命させようとするまやかしに乗ってはいけない。化石燃料を使わないですむ社会を目指すべきなのだ。化石燃料を使わないで済む社会が全世界に広まって、初めて持続可能社会の土台ができる。
原子力を使えるというのは幻想であった。コストに合わない上に役には立っていない。調べてみるがよい。原発からの世界の最終エネルギーへの貢献はわずか2%にすぎない。原子力を使えないとすれば、化石燃料以外のエネルギー源(一次エネルギー)は、自然そのものが持つエネルギーだけである。それを日本では自然エネルギーと呼ぶ。英語では自然エネルギーという言葉はない。「再生可能エネルギー」だ。
自然エネルギーと言う発想が素直に出てくることに、日本文化の特質がある。自然エネルギーの元をたどれば、ほとんどが太陽エネルギーに行きつく。我々を取り巻く自然環境、むしろ我々も含んだ自然環境と言ったほうが良いが、その中のすべてがエネルギーを持って活動している。それらのエネルギーは太陽エネルギーが変化したものだ。莫大な太陽エネルギーが地球に降り注ぎ、森羅万象のエネルギーに変わり、役目を終えたエネルギーは熱エネルギーとなって、宇宙に向けて去っていく。我々すべては太陽エネルギーの流れの中で生きている。太陽エネルギーの中で生きていく仕組みを、各地で作り出すことが、持続社会への道である。
化石燃料は集中を好む。産業革命で大工場が作られた都市に、人口が集中し始めたのがその証である。石炭が石油‐大規模火力発電による電気に変わっても、集中は絶え間なく続いた。化石燃料時代の特質である。一方太陽エネルギーは集中しない。集中を廃し、適度な分散を作り出す、それが太陽エネルギーで生きる社会を作るための第一歩である。
西欧近代は化石燃料を選んだ。「自然を征服する人類、無限に進歩する人類」の考え方のもとに。だが化石燃料は有限だ。また人が生きるこの世界も有限だ。「無限に進歩する」はありえない。化石燃料を選んだのは近代西欧だ。近代西欧の失敗なのだ。西欧が言い始めた「CO2による地球温暖化阻止」ではなく、我々はこう言おう。有限な化石燃料に頼ることなく自然エネルギーで生きる未来社会を創り出すのだ、と。それを先導する古い文化を我々は持っている。その証拠が百有数十年前に企画された琵琶湖疏水である。
これから始まるのは、持続社会建設に向けての成長である。高度成長をはるかにしのぎ、明治維新にも匹敵する社会の大変革が待っている。
脱東京一極集中!! 脱自動車過剰社会‼ 脱高層ビル!!