17世紀 近代の始まり

 現代社会は西欧近代の土台の上に立っています。これは高校の歴史で、戦後の日本人のほぼすべてが学んできたことです。
 現代社会の特筆すべき点は、西欧近代を基にした思考法と、それを基にした実践が、地球上で初めて、全世界を一新してできあがった社会であることです。普遍的価値観という言葉を最近よく耳にしますが、現代において、この価値観は西欧人には我が事として当然と考えられ、また西欧に人的起源を持つアメリカ・カナダ・オーストラリア・ニュージーランドの人たちには、その考えが純化して受け継がれています。一言で言えばその「普遍的価値観」が西欧近代主義なのです。伝統的に非西欧文化を持ちながら、西欧化を積極的に明治維新で取り入れ、さらに太平洋戦争の敗北でアメリカから強制されてかなり薄っぺらに取り入れた日本が、その西欧近代主義に追従しています。
 それまで地上に生きる人類という知的生命体は、その地域に限る影響力を持つ考えしか、産んできませんでした。それらは多くの場合深みはあり、多様性ももちろんありましたが、地域限定型の文化であり、したがって地球全体からなる世界を統一する文化ではありませんでした。それが現代はグローバルな時代とされ、人類共通の考え方があるのだと、人々は思うようになりました。それは歴史的に見てかつてなかったことであるのは、少し歴史を思い出し、思考をこらせば明白です。秀吉や家康が世界制覇をしたでしょうか? 彼らは試みさえもしませんでした。試みたのは日本統一と近隣侵略だけでした。でもシーザー、ジンギスカン、ナポレオンが世界制覇をしたでしょうか? そう考えれば世界共有の価値観という考えが、いかに不思議なものであるかと言うことがわかるのではないでしょうか? もちろん戦争はだめだ、人々の生活が大切だというような、「当たり前の」考え方が世界に共通するものだというのはわかります。しかしそれが現代でいうグローバル時代の発想でしょうか? その発想だけを基盤として、未来は築けるのでしょうか? 残念ながらそれだけでは、バイデンもトランプも、ましてプーチンや習近平、そしてこれから台頭しうる各地域のリーダーたちも、やりたいことをやって世界をますます混迷に導くだけでしょう。一方で戦争はだめだ、人々の生活が大事だと軽々しく言いながら、何も出来ない日本のリーダーたちは、「どうせ沈みゆく日本なのだから」と考え、何も出来ないのにその権力にしがみついたままでいるでしょう。
 グローバルな時代というのは幻想なのか、それともこれからずっと続くものなのか? またずっと続くのは多くの人にとって重荷になるのか、それとも全人類が共有する希望になるのか。今は時代の分水嶺であり、そして全人類の知恵を結集して未来を築くべき、非常に重要な時代にいるのだと、21世紀に入って急に広く言われ始めたグローバルな時代という言葉が、我々に告げているような気がします。これは西欧近代を普遍的な価値として生み出した、西欧近代の帰結なのです。
 その近代という時代について、ポストモダニズムを標榜する芸術家たち、ニーチェなどの哲学者を含む西欧の先駆者たちから始まって、日本でも現在一部の思索家が、それぞれの立場や専門領域において、その終焉を指摘されています。そして私たちは今激しい変化の時代に直面しており、世界的に見ればコロナ渦、ウクライナ戦争、再発したパレスチナ問題、そして日本においては30年にわたる停滞感が、否応なく近代の終焉という時代の危機を、感じさせてくれています。
 近代という時代は、17世紀に始まりました。近代哲学の父と呼ばれるデカルトは、方法叙説の中で有名な言葉を残しました。コギト・エルゴ・スム(我思う故に我あり)と。
 方法叙説を読むと、デカルトがあらゆるものを疑ったことがわかります。それまでの知識をすべて疑った。つまりそれまでの価値観をすべて疑った訳です。そして「考える私」がいるのだけは確実だと考えたわけです。逆に言えば中世の価値観をすべて疑ったからデカルトの思考があることになります。
 デカルトがそれ以前の常識をすべて疑って新しい価値観を見出したから、17世紀は世界史の中で輝かしい時代と考えられています。しかしその時代に生きた人々にとっては、決して嬉しい時代だったとは言えないようです。中世価値観の悪い側面である魔女裁判の数が、統計的に最大になった世紀が17世紀でした。詳しくは次のリンクからご覧ください。


 価値観の完全な交代、それが近代を生みました。しかしデカルトはキリスト教の「神」を疑いませんでした。これは近代の限界が見える現在、注意する必要があるかも知れません。自分の信じる「神」を、グローバルな時代にもかかわらず相対化できない政治家達が21世紀初めの混乱を引き起こしているのですから。
 時代が変わろうとする現代、次の時代の土台を築くのはやはりすべてのことを疑ってみる姿勢ではないかと思います。
 ちなみにデカルトと同じように、あらゆることを疑った人がいました。「善の研究」で西田幾多郎ははっきりとデカルトと同じようにすべてを疑った結果「純粋経験」から彼の思想を始めています。西田が愛した散歩道であるが故に哲学の道と呼ばれる道の散歩者で一番多いのは、欧米系の人々のような気がします。欧米が切り開いた近代社会の限界を一番強く感じているだろう欧米人。その人々が純粋経験を感じる場所が哲学の道であるような何か象徴的なことであるような気がします。