疏水が企画された訳

琵琶湖疏水を企画し実行に移しそれを完成に至るまで最高責任者として指導した、京都府第三代知事北垣国道は、何故琵琶湖疏水を企画したのでしょうか。それはあまり知られていません。しかし彼の日記が残っており、日記の記事の中に、その意図がはっきり見て取れます。それは地方衰退に悩む現代日本のすべての町に勇気を与えるものであり、西欧近代に続く現代という時代が、ウクライナ侵攻などによって混迷を迎えた現在、全世界に胸を張って二十一世紀から始まる新しい時代の萌芽が琵琶湖疏水にあるのだと、告げることが出来るものであるように思われます。
 日記は現在見つかっているすべてが、京都の歴史ある出版社の努力で編集され出版されています。古文調になれない若い人たちには読みづらいかもしれませんが、出版された日記の実際の文章を提示し、皆様に分かりやすく要点をつかんで、琵琶湖疏水が企画されたいきさつを明らかにしたいと思います。

東京集中の弊害で衰退した地方都市が、150年前の京都の姿であった

現在の日本には、東京一極集中の結果、激しく衰退した地方が数多く存在します。それなのに東京は地方を顧みることなく、学歴詐称の疑いを持つ嘘から出発した可能性がある知事が、まだ東京を成長させると主張して、衰退した自民党の影に隠れた支援を受け、三期続けて選出されることももありうるような、どこか嘘ずくめで怪しげな雰囲気が漂っています。一期目の七つの公約は全部思いつきの実行不可能なこと、当然達成されたとは言いがたいものですが、七つのうち一つは達成されたと胸を張っているようです。それって七つ打てば一発も当たってるよと言っているの。七つ嘘を語れば、その一つは当たらずといえども遠からずと言っているのかな。今の余裕がなくなった日本の政治家に、あってはならないと怒るべきことでは。そして二期目はエジプト大使館に(つまりエジプト政府に)助けられかろうじて逃げ切り、三期目もエジプトの影を引きずりながら出馬宣言するも、公務を理由として選挙戦を逃げまくる。公務を無視して部下の選挙戦にはむやみやたらと出しゃばったくせに。
 この都知事を見ていると、はったりだけで生きてきて、本当の自分を見たことないのじゃないか、そんな気がしますが、考えると東京という町の姿を、良く反映した人物であるという気もしてきます。嘘でデビューして嘘をつきまくって、真面目な人が圧倒的多数の日本人の中で、嘘をついたベロを後ろを向いて出せもせず、新たな嘘で固める知事がリーダーの顔をしている、あくまで日本の仮の首都に過ぎず先を見通すことも出来ない東京。
 東京という町が生まれたのは、明治維新の後天皇が江戸と呼ばれた町に行幸されて、仮の都を明治維新政府が造ったときです。東京は活気を帯びて新しい東京の歴史を歩み始めましたが、そのあおりで千年の古都京都は哀れにも衰退に陥りました。幕末に三十数万人あった京都の人口が明治10年代には二十数万人になるほど激減したそうです。東京に吸い取られてしまって、地方の活力が衰退してしまった、今の日本の多くの都市の経験を150年前に経験したのが京都だったとも言えます。たった十数年で、人口の30%が激減したのですよ。現代の専門家・評論家が当時いたら、後30年で京都は消滅する、さあどうすると言って不安をあおったでしょうね。
 京都府知事に着任した北垣が抱えていた京都の状況はこのようなものでした。北垣の前任者山本覚馬(大河ドラマで有名になった新島八重の父)は、会津藩士であったにも関わらず、剣道を禁止するなどしたそうで、今から見ても大混乱の時代を京都は経験していました。都知事選挙に見る今の東京の混乱を遙かに上回る混乱を京都は体験していたのです。幕末の動乱で戦火にまみれ、その後天皇が千年の都をお離れになって、そのあおりで人口激減の危機にも陥ったのですから。まさに時代に翻弄されようとしていました。

民衆に直接訴えた北垣国道の日記にみる記述

現在出版されている北垣の日記は、北垣が京都府知事に赴任した時期から始まります。府知事に赴任して、気持ちも新たに日記を書き始めたのかも知れません。そのため初期の日記から疏水計画の進行を断片的にではあるが即時的に、みることができます。疏水に対する北垣の思いが、直接に生き生きと伝わってくる文章が初期の日記にはちりばめられています。
 しかし彼には知事が行うべき日常の業務を行いながら、衰退した京都を復興させる道を考え、それを実行に移すという任務が与えられていました。日記の初期の部分は、後世から見ると新たに経験する日常的な諸問題に紛れて、ストーリーが見えにくい部分もあります。
 北垣の意図が尤もよくわかる彼自身の記述は、私の知る限り二つあります。疏水事業を最初に京都の主立った人々に提案した「琵琶湖疏水起工趣意書」と、琵琶湖疏水がほとんど完成した後、鴨川運河を開設しそれと鴨川補修と絡めて行おうとしたとき、反対の声が大きくなった時の対策として、体調不良で休養を取るに当たって、「疑問をグループで私に持ってきなさい、私が直接説明するから」といって、そのときの記録を日記として残している部分と、その二つを合わせ読むとよくわかります。
 彼の独特の政治手法、まず有力者の全員一致の納得ずくの賛同を得、その後中央政府と当該地方議会の承認を得て事業を開始し、事業が進行中に困難に突き当たり報道陣にも問題にされ、庶民にも身近な問題となったとき、庶民に直接語りかけて説得するという手法は、私の知る限り独特の、しかし確実に大きな問題を解く民主的手法として、考えて良いのではないかと思っています。
 上記二つの資料のうち琵琶湖疏水起工趣意書は、琵琶湖疏水記念館が保有していますが常設の展示物ではありません。一方彼の日記は出版されていますから、その記述をたどりながら説明ができます。ここではそれを行ってみましょう。
 まず市民に直接語りかけると決めた当日の日記を見ていきましょう。

疑問者へ直接来訪してくれ、説明を行うと約束する

上のページは塵海より明治21年7月の日記をコピーしたものです。明治14年知事に着任し、ほぼ一年で京都復興策として琵琶湖疏水を企画し、その実行に移した疏水工事は、壮大な工事の最後の仕上げとして、鴨川補強工事問題と絡んで、新たな支出をせざるを得なくなりました。そのため、市民すべての世帯に、収入に応じた税金をかける事態に落ちいった北垣が、京都市民に約束をするのです。
 体調を崩した私が休むあいだ、琵琶湖疏水工事について疑問を持つ者は、三週間のあいだ、来訪を受けるから来てほしいと約束をしたと書かれた日記です。この後毎日のように来訪するグループの住所氏名を記録し、説得の概略を日記に書き記しています。上出ページの最後の部分では早速氏族の十河という人と平民の原田さんが来たことが解りますね。明治21年7月28日のことです。

上のページでは、琵琶湖疏水計画の経緯が述べられ始めます。最初の部分を文に即して現代語訳を書いてみましょう。4行目「答。」から始まる部分です。
 そもそも琵琶湖疏水工事を発案したのは、軽率な思いつきでもなければ、安易に決めたものでもない。私が明治14年1月に京都府知事に着任するに当たって、伊藤博文参議と、松方正義内務卿が、京都の衰退を憂い、更なる衰退が起こりそうなことを恐れて、京都が永続的に繁栄する道を探し、千年の古都が、今の言葉で言えば消滅の危機に陥ることを防いでくれと、くれぐれも頼まれたのが、始まりだったと言っています。
 そして着任した後は、この探索に集中し、また徳川時代の京都を考え、ある結論に達したことが解ります。それは「京都は商売の地にあらず、工業美術を基本としてその繁栄を保つべきこと」と考えるのです。

北垣は京都の産業革命を地域の水力で起こそうと考えます

工業美術が京都の繁栄の道だと考えた北垣は、それを京都の持続的繁栄につなげるにはどうしたら良いかと考えます。そして次のように考えます。機械の力を借りて、京都の高い品質を持った製品を、質を保ちながら大量に生産し、日本国内だけではなく、世界に販路を築くべきであると。
 そして機械を動かすには動力が必要だと思いつきます。動力すなわち今の言葉を使えばエネルギーです。そしてエネルギーには、火ーすなわち石炭という化石燃料と、水ーすなわち水という地域に存在する再生可能エネルギーがある。だが火は高価で経済を圧迫させかねない。(化石燃料が高いというのは、現在の日本の状況がそうですよね。火に頼った電気やガスに対して補助金を出すことが、岸田政権の唯一の支持率浮揚策として、打ち出されているのですから)北垣は京都にある水を使うべきであると結論します。
 現在の言葉で考えると、衰退の危機に陥った京都の、持続的な繁栄の道を探してくれと、時の日本政府中心人物達から頼まれた北垣が、京都は美術工業の町である。それを使って京都の持続的復興を図るべきである。そして工業にはエネルギーが必要だ。(言うまでも無く当時石炭を大量に使った産業革命が、イギリスを中心として行われていました)エネルギーは石炭か水力しか無い。だが石炭は経済を圧迫する。地域にある水力を使おう、という論法です。ちなみに彼の日記には石炭を排除する理由を、その値段だけではなく環境に悪いと記述する部分もあり、琵琶湖疏水起工趣意書では、それが付記として明記されています。

京都の河川をすべて調べた北垣は、琵琶湖から水を引いてくることを結論する

水力で京都に産業革命を起こすことが、京都の持続的繁栄の道であると考えた北垣は、京都の河川をすべて調べます。上に上げた文では、桂川はもちろんと書いていますが、桂川は京都の中心部から遠いからだめだと、他日の日記に書いてあります。一番水量があり、流れの勢いもある桂川は遠いからだめだが、もっと近くの川もすべてだめと考えた北垣は、琵琶湖から水を引いてくることを思いつきます。琵琶湖の水面と、鴨川の三条の水面とでは、およそ140尺(約40メートル)の高低差がある。琵琶湖の水を高さを変えずに引いてきて、それを一気に鴨川に落とせば、大きな水車を回すことが出来る。これで京都に産業革命を起こすことが出来る。そう考えたわけです。またそれによって、工業用水だけではなく、大津・京都・伏見・大阪と水路が開け、水運の道が出来、水田のための灌漑用水が出来、上下水道にも役に立ち、防火用水にも使え、空気の乾燥を避ける道にもなる。様々な目的に用いることが出来ると北垣は考えました。

エネルギーとしては、電気に代わり、それで京都の路面電車に活用された

以上が北垣が最初に琵琶湖疏水を考え出した目的でした。京都は伝統工芸の町であるという性質は、今も代わりません。琵琶湖疏水計画の実行の途中で、京都では様々な産業も触発されました。西陣織にも西洋からの機械が導入され、今も科学教育に貢献する島津製作所もこの時期発足ました。伝統産業だけではなく、西欧の考え・技術を最初に取り入れるという機運が盛り上がりました。北垣は西欧の輸入に頼るそれまでの日本で、できる限り国産で賄おうとしました。琵琶湖疏水遂行にもその考えがちりばめられています。
 北垣は京都を大学の町にするにも大きな役割を果たしています。大阪にあった第三高等学校を、現在の左京区吉田に移転させたのも北垣です。これが基になり京都帝国大学(京都大学)が設立されます。また新島襄とも親交があったことも、北垣の日記から読み取れます。京都の学風には。欧米のまねごとではなく、日本の伝統を守り海外のものも取り入れるという、強い気風が未だに残っています。乱立する東京の大学の学風とは、ひと味違った学風です。
 琵琶湖疏水はエネルギーを主たる目的としましたが、エネルギーに関しては計画の途中工事責任者の田邊朔郎たちが、アメリカで視察した水力発電を使うことに切り替わります。京都の家庭や工場に電灯がともりました。また路面電車もそれで走りました。路面電車が地域の再生可能エネルギーで走ることを、一世紀半前に実証実験として示したのです。
 これを無視しないで起きたいものです。交通手段は現在莫大なエエルギーを消費しています。日本でも全エネルギー消費の1/4ほどは、交通手段に使われています。その内訳は道路上が90%強で、要はバスやトラックも含めた自動車によって消費されているのです。一方交通で消費されるエネルギーのうち、線路上の消費はわずか2%ほど、それぞれ3%ずつ消費している海路上と空路上より少ないのです。これだけ鉄道網が張り巡らせているのに。これを考えると持続社会に向けて今できることで一番大きなことは、多くの地域に路面電車(LRT)を導入することなのです。琵琶湖疏水に習って、町に路面電車を引きましょう。明治時代の衰退期25万人しか居なかった京都に路面電車が引かれたのです。ドイツでは人口十数万人しかない町でも、路面電車が活躍しているのですよ。